《仙人生活?》
当宮にお越しの皆様はご存知の方も多くあられるだろう。
宮司を名乗る“これ”は公園のベンチに座っていて、訪れた何処が端か分からない見えざる流れに飲み込まれたことを切っ掛けに、全体一つに溶けると言う体験をした。
それから全く、個や個にまつわる何かが崩壊すると言う恐怖とは無縁である。
溶けてしまった者には
既に個の都合がない。
エゴ都合がない為、他の端末と相対して何か引っかかりが生じるのは「愛のない動き」を見た時位だが、何故なのか問いはしても止めたりはしない。
愛があろうとなかろうと、それぞれの自由意志の元にしていることだからである。
そんな訳で、コロナ騒動により社会のあちこちで沢山の「正しさ」が沢山の「誤り」を攻撃している渦中もスルスルと通り抜け、
街のあちこちのシャッターが閉まって眠った様になっている空間や、色々な思考や感情を渦巻かせながら営業している空間を、万遍なく静かに眺めている。
みんなのばらけるチャレンジを邪魔しないよう、人間との接触は必要最小限に留めて、観察の宝庫である街を歩きながら、ふと自らについて「?」となった。
世の大転換期つったって、
何か「変わった」っけ?
溶ける体験をしてから、不覚の言うあらゆる悩みが悩みに感じられなくなり、お約束がお約束でなくなり、
彼らの言う“愛”すら、執着と発情と名誉の混ぜ合わせと分かった。
そこから不覚の交際をどんどん減らし、只今は数える程の端末達と郵便でのやり取りがある位。
この度の騒ぎが起こる前から、日々の暮らしで人間との密な接触がおそらくとても少ない。
只今だとめっちゃ怒られるらしい夜のお店に行く機会もまるでない。
意図せず変化したこの暮らし、実際そんなんではないが人から見れば仙人みたいな生活かも知れない。
更にここしばらくは気ままに旅行をすることもなく、上から来た「とにかくここに居て!」とのお達し通りに持ち場を離れず作文をし続けて来た。
今回の騒ぎで宮司にも生活スタイルの変化がなかった訳ではないが、結果として「作文や工作に使える時間が増えた」位である。
親族と呼ばれる人々と会う機会が、稀にする必要物資の交換以外になくなったのもそう言えば変化だろうか。
だが彼らと電話等で話をしても基本的に「自分はどうにも出来ない世の中の動向」と「自分に近しい人々の無事」のことしか言って来ないので、会う機会がほぼなくなったのも一つの恩恵と感じている。
その分、全体に愛を放てる。
親族に限らない全ての人類に平等に進化の機会が生じていて、それが活かされることに関心がある。
そして自他を問わず、新体験が起こり味わわれることに関心がある。
この所、ちょっと奇妙な感じがしていたのは宮司の暮らしにはあまり変化がなく、むしろ世間一般が形だけ
こっちに寄せて来た
からだったのかと、気がついて膝を打った。
世間も寄せたくて寄せた訳ではないので、そりゃあガタピシもするだろう。
そこも含めて、ますます見逃せない日々である。
にわか仙人って、多分苦行。
(2020/4/20)