《主要の夢》
「主人公」は大抵一人、多くても二人だが、「主要人物」となると物語中である程度重要な役回りを与えられている複数人と、範囲が広がって来る。
連続ドラマで人物相関図に説明付きで描かれる「主な登場人物達」である。
不覚者の中には、「この世界の主人公は自分!」とする、自信満々もしくは誇大妄想的な人々も居る。
が、そこまで行かなくとも意識を監督、眼をカメラにして撮る私物語の中で主人公であることは勿論として、これが自らだと信じた“キャラクター”が、この世界の主要人物の一人であると言う願望を抱えた人は結構多い。
それぞれが不覚的視野で限定されたまま認識している“世界”はごく部分的なものなので、それも私物語の域を出ていない。
坊主が屏風に上手に描く坊主の絵が収まる、屏風程度の広さの“世界”である。
屏風サイズのスクリーンに自分と、自分が認めた主要人物を配置する。
政治・経済・学問・芸術・娯楽などなど、重要視しているもので話に味付けをして、大まかな舞台背景を作る。
その世界の中で、自分物語も同時に撮ろうとする。
精神世界的なものを好む人々で言えば「『目覚め行く世界物語』の中で主要人物の一人でありつつ『私の物語』の主人公として生きる」となる。
せわしない話であるし、この状態でどうやって意識が中立になるのか見当もつかない。
部分的なスクリーンの中で自分物語を進行させる個人が、中立であろうとする。
摩訶不思議なことである。
スクリーンの外については「知らん」となったままで、何ならスクリーン上で主要人物ではない端役扱いの人々のこともぼやけている。
一方、主要人物については割と執着する。
メンバーの揃え方に拘るし、配置にも拘る。
素敵な仲間達との交流や成功を重視するなら、味方風の主要人物を集め、自分を脅かす危険が一杯と言うスリルを重視するなら、敵方が多くなる。
教えや誉れを与える役割、受けとめて慰めてくれる役割、和ませて楽しませてくれる役割、助けを求めて見せ場を作る役割。
きっちり役割分担させるより、幾つかの役割をブレンドして作った役の好演を、この人と狙いを定めた相手に求めることが多い。
そうやって、不覚の人々は主要の夢を見続けている。
不覚時代の出来事として、最近になってふと蘇って来たものがある。
年下の同性から「あなたになりたかった」と言われた場面である。
媚びるとかでもなく、冗談めかしてと言う風でもなく、真顔でそう言われた。
「あなたがよかった」と、繰り返されて念押しみたいな目力を感じた所までは憶えているが、どう返答したのかは不明。
おそらく、「何で~?」とか笑いで混ぜ返して適当に誤魔化したのじゃないだろうか。
表面上、ひょうきん者として過ごしていたからである。
これが社交上最も平和だからと言う結論を導き出したのでその様に表向きを整えていたが、内側では坦々と入って来た情報を整理し片付けていた。
その頃の“これ”は関心を向けるかどうかを「相手から伝わる頭の良さ」で決めていたので、
どう返しても微妙で、話に生産性もなく場を盛り上げたり和ますでもない発言を、己の欲求から放って来るのは、頭のいい人間ではない。
と判定し、
この人に難しい話は出来ないし、
重要な話も出来ないな
と、相手に向ける関心を省エネモードにした。
馬鹿にするとかではなく、単に出来ないことはしないさせないと言う明快な見切りである。
無い袖は振れないのと同様に、無い頭を働かせられない。
悪意も善意も好悪の感情もなく、あるとしたら軽い諦めと呆れで、そう分類した。
頭がいいとは、持っている情報量が多いだけではなく、察しのいいと言うことでもある。
知識が一杯でも察しの悪い頭は、不覚的に「良い」とはされない。
しこたまボールを持っていても、ラケットがボロで体が弱かったら、テニスの試合で戦力にはならない。
いっぺんに使える球数も決まっているし。
不覚時代の“これ”から見て、その発言をした相手は明らかに察する力が少なく、説明を理解する力も弱く、ついでに言えば愛も歓びも感じなかった。
“これ”へのではなく、発言者自らへの愛や生きる歓びである。
あったのは相手の意識が求める「こうしたかった!」の執着。
そこには道理など存在しないので、続く道も当たり前にない。
道なき場での単なる爆発である。
地雷地帯の鑑賞を趣味にする人もあまり居ないだろう。
適当に場を収めてそっと遠ざかるのが最も実際的と、その頃は判断してその様にした。
覚めてから、この場面を蘇ったビジョンとして眺めてみて、当時“これ”にも確かに「主要」か「その他大勢」かの判定はあったのだと、自らの不覚を理解した。
そして御神体と分割意識をごた混ぜにしていたので、単に「頭の良くない人」がそこに一人居るだけに見えていた。
瞬間瞬間の点滅についても分かっておらず、その頭の良くない人と見なした存在が、ずっとそのままでまず変わることはないのだと無意識に決めつけていた。
全く何見てたんだか。
本当に、何も分かっていなかった。
不覚な“これ”の分かっていなさを分かると同時に、あの発言をした人物の“要求”から「求める者になれたはず」と分割意識達が思っていると言うことにも、気づけた。
以前から、そうではないかと言う気がしていたが、そのボディやその境遇は我が物だったかも知れないのだと思えている。
これが、何を意味するか。
御神体と分割意識とが対ではあるが別の存在だと言う真実を明らかにしているではないか。
「○○になりたい人生だった」とか「○○の子供に生まれたい人生だった」とか、気軽に呟いてみたりする言葉を、ネット上で見かけたりもするが、これも同様。
主要の夢は、分割意識が見ている。
御神体は、何の夢も見ず只ありのまま今ここに在る。
どちらが美しいかは明らかだ。
夢から醒めずに、覚めたいの?
(2021/7/5)