《下々習慣》
目を覚まし、人型生命体としての全力を発揮すると言う本道において、意識が独り立つことは欠かせない。
だが独り立とうとする時、繰り返しの習慣によって意識に付いた癖がそこに立ちはだかることがある。
我の強いおらが君・おらがさんは、これまでの癖通りにエゴを乗っけたまんまで目立とうと頑張り、独り立つ機を逸する。
目立つには人の目が欠かせない為で、独りで完結する独立には程遠い。
そして又、一見は我が強くなさそうな“和を重んじる”とする人々も、彼らが和と呼ぶ繋がりに縛られて独立の機を逸する。
和とは全ての要素の合一。言ってみれば全員集合であり、いい感じのメンバーを集めたコミュニティのことではない。
和と繋の違いは明白である。
我が強くなさそうな和を重んじる気でいる人々も、おらが気質で評価や称賛に飢え続ける人々も、独立を実行することは稀である。
特に、日本と言う国で独り立つ“主体性を持つ”ことは、これまであまり習慣づけられて来なかった。
その点が、意識独立へのハードルをやたら高くしている。
裏を返せば、主体性を持たない癖が付いているとも言える。
主である存在に付き従う者達、下々としての認識は結構最近まで大っぴらにされているものだった。
昭和初期まで、多くの人が戸籍に「平民」とか記されていたそうである。
表向きの階級が取り払われたり戦争に勝ったり負けたりする間に、ちょろっと自由や平等のことを言われる様になったって、頭で知っても感覚がまだ追い付かないのだ。
自由とか平等とか、頭でだけでも分かった感じになったのさえ、ここ数十年のことじゃないだろうか。
その前には、
「御上の言うことに逆らっちゃなんねえだ」
と言う、表も裏もない下々習慣がそれこそ千年二千年、上塗られ続けている。
文字通り、桁が違う。それも二桁程。
しかも、えらい御上に向けて納める収穫は、多くの民が上空に仰ぎ見る「お天道様」次第なのである。
日が照るか雨が降るか、下々にはどうすることも出来ないと言う認識。
どうかする必要があるものでもないのだが、決められないし分からない中で、弱い立場の者が何とか遣り繰りして毎度義務を果たすと言う一連の流れに慣れて、感覚的にしっくり来ちゃってても不思議ない。
租とか年貢とか税金とか、呼び方は変わっても徴収を受けていることに変わりはない。
徴収の繰り返し自体は別に良くも悪くもない。
只、人型生命体としての本道を行くことを、一国の民であることと同じノリで片付けようとすることは出来ないのだ。
習慣とは根深いもので、そんなつもりがないことも癖で行っていたりする。
国や社会に対しショバ代を払う必要。
意識の主権を譲り渡して従属し、最終責任を誰かに負わせ続ける必要。
この全く違う二つを抱き合わせていると、当たり前に意識が独立を果たす日は来ない。
後者は必要ですらない。
単に染みついた目に見えない癖である。
下々習慣からの従属癖があることで、信念をもって大義に尽くす的な生き方に憧れを持ち、好む人は結構いる。
申し上げておくが庶民の様な下々には入らない、選民だって民である。
選ばれし民が国家の威信等の為に役割を果たすと言う意味では、大義もシャレた年貢と言える。
あくまでも民としてすることだから、選民意識が主体性を用意してくれたり、意識の独立を果たしてくれる日も来ない。
盛り上がるスポーツ観戦の様子など眺めていて、不思議に感じることがある。
全人口のほんの一部であった武士のDNAを気軽に精神的全プレして、サムライスピリットを共有化するって、相当「見たいものだけ見る癖」が強まっていないと出来ないことじゃないだろうか。
ちなみに三猿は「人として悪事を見ず、聞かず、言わない」と言った道徳的な教えだけでなく、「民は余計なことを見るな、聞くな、言うな」の上手な禁止札にもなっている。
支配したい施政者と、責任を預けたい民達の間にあった蜜月システムを表現する、不覚全盛期のテーマに沿った分かり易い作品の一つである。
サムライスピリットに関しては勿論、元は百姓身分の地侍もサムライの一種なので、全くの騙りと言う訳でもない。
それでも血脈を遡れば地侍ではない百姓だった人の方が断然多いはず。
だが、ヒャクセイスピリットと言うのは聞かない。
地味で、格好悪く、多岐にわたり曖昧で、取り立てて見る点がないからと無視したのだろうか。
お百姓さんとかの呼び方で使う「ヒャクショウ」と混同して、うちは農家じゃないからと意識を向けなかったのかも知れない。
農家じゃないからと言って即武士と言うのも、大分夢見がちな変換ではある。
もしくは、遡れば大体みんな清和源氏だとか平氏やら何かの末裔と言う、割とふわふわした系図観に従って、血の一滴位はサムライかも知れないよと言う望みでも繋いでいるのだろうか。
何だか「一回浜名湖で泳がした鰻は、実際どこ産でも本場扱いになる」と言うぼやかし方に似ている。
支配階級への恨みではなく憧れだけ残して、思い出補正をかける“選り好見”は「見ざる」に慣れた下々感覚ならではと言う気もする。
命も惜しくないサムライ気分をアクセサリー的にトッピングして、一方で相変わらず「政治が悪い」「国が悪い」「上級国民が悪い」と、不満の原因を上方に求める下々習慣継続中の人は多い。
従順な民でありたいから国の象徴的な存在は必要だし、責任を負わせて首を挿げ替えられる代表者も居てくれなければ困る。
そして何か自分を囲い込んでくれる枠があると落ち着く。
「ネット民」等、頼まれてもないのに所属を自ら名乗る「○○民」と言う表現もある。
何かの民や下々であることに安らぎを見出す癖は、どれ程世に自由が広がろうと不覚であり続けたい意識からは消えないのだなと感心した。
気に入った存在の支持層として所属を表明した上で、金銭をつぎ込みたがる癖も、ある種の「年貢嗜好」である。
民草、下々として生きることは不覚にとってある意味で苦であり、そしてある意味では楽なのだ。
年貢と言う苦役さえ片付ければ、責任は負わず楽して差し支えない。
この考え方に則った行動の反復による癖は人々の中に、御本人達の思うより深く浸透している。
慣れた苦しみの合間を縫って楽して生きて、別に何一つ悪いことなどない。かと言って別に良くもない。
はっきり申し上げられるのは、意識が独り立つのに、
染みついた下々習慣に無自覚なままでは無理と言うことである。
ひれ伏して立てるものなし。
(2021/6/17)