《レタコトナイ?》
本来、分かたれた個ではなく全母たる虚空であったと言う原初の記憶は、感覚記憶。
その為、記憶が復活再生しても、先週記事の終わりにも申し上げた只「それがそれである」以外の、説明が難しい。
不覚社会においては当たり前とされる様々なことが、全く当たり前では「ない」ことが意識にとり明らかになるので、「ない」の表現が自然に多くなる。
自他の括りは本来ない
善悪では量れない
優劣は定まらない
等々。
不覚の人々は大体において、無しより有りが好きである。
無能より有能が好きだし、無力より有力が好きだし、無形より有形が好きだ。
一方で、不覚が好きな「ない」もある。
やりたくない
知らない
好きになれない
分からない
愚痴や文句や悪口を言うことが好きな人々の間では、
「誰かや何かを「好きになれない」と言うことが好き」
と言う、訳の分からないことが起きていたりする。
とは言え、その好きになれないものを、好いたこともあるのだ。
個の自分としては好いたことがなくとも、全体は一つであるから。
そして、ありとあらゆる体験を既にしているからである。
不覚の人々は、やりたくないことをやらない時、「やりたくないからやらない」で済ませず、やらない為の言い訳を必要としたりする。
仕方ない理由を作って、「やりたくないこと」を「出来なくても仕方ないこと」にグレードアップしたがるのだ。
実際には、何のグレードもないので、何らアップしない。
しないが、気分的にそうしたがる時に「レタコトナイ」は便利に使われる。
誉められたことないから
やる気が出ない
言われたことないから
そんなこと言えない
されたことないから
気持ち分からない
こうして「レタコトナイ」で行動の機会を退け、自分が「レタイ」「レタカッタ」ことばかりを訴えて、不覚の世の日が暮れて行く。
変容の時代が進むにつれ、不覚はどんどん暗さが増している。
只今は心細さもつのり訴えの声を大きくする人々と、静かになって立ち上がり始める人々に分かれて行っている最中である。
愛されたことないから
愛が何だか分からない
と言っても、虚空から送られる天意は、人型生命体を通して愛となっている。
美談になりそうな正しい行いや心を癒す優しい言葉等にならなくとも、呼吸と言う表現で、存在すると言う表現で、愛は常に行き渡っている。
御神体がそれをしている。
「愛?何それぇ?」と、すっとぼけているのは分割意識のみ。
全母たる虚空も、御神体も常に
あいしているし、
あいされているし、
あいでしかない。
既に総出で、ありとあらゆる不覚体験を済ませている人類。
「宇宙に飛び出せば新しいんじゃない?」
「不老長寿を目指せば新しいんじゃない?」
と、距離やら寿命やら狙いを定め、それまで限界とされて来た範囲を拡げようとすることは気休めにしかならない。
形だけ新しそうな感じにしても我を抱えたままだと、質は上がらず澱んで膿が溜まる。
そして、崩れて行く。
煙に巻く為に戦争始めたって、既に幾度やったことか。
「朝よ~」と言われたが起きるのが嫌なのでとりあえず布団の中で
「アー!足がつったぁー!」
とか叫んでみたりするのと大して変わらない。
感覚記憶の復活再生を意志する方々は、「それがそれである」と分かるまで只待つのではなく、今の今、出来ることがある。
現代不覚社会が行っていること、行おうとしていることについて、これまで人類のして来た様々なことと照らし合わせてみられることを、お勧めする。
照らし合わせ比べてみて、真に新しいことはあるのかどうか。
個の視点を超え、愛で観察なさってみて頂きたい。
レタコトナイこと、一つもない。
(2021/4/26)
4月のふろく
《天照メモ》
記事にて申し上げました照らし合わせ用に、メモをこしらえました。
左側にはニュース等、取り上げる事柄に日付を添えて、右側には人類史の中で起きた「通じる点を感じる出来事」を何か一つ選び、年代や分かれば日付を添えて、それぞれお書き頂ける様にしてあります。
一つと申し上げるのは、それにより集中力が増すからです。
他にも似た出来事を発見された場合は二枚目、三枚目を用意して、左の欄は空けて右だけお書き下さい。
下にある、ピンクの雲が流れている所には、どんな点が共通しているか、そこにはエゴのどんな作用があるか、繰り返す理由はどこにあるのか等、天の意に照らして、気がつかれたことを自由にお書きになり、観察のまとめとなさって下さい。
直接関係のない様な出来事でも、「そこに繰り返しがある」ことを発見し続けて行くと、普段の暮らしの中で堂々巡りが発生した時も「はて、何でここ繰り返すのやら?」と気がつけるようになります。
爽やかな季節に、感覚の磨きをお楽しみ下さい。