《リアリティー?》
お目にかかる機会のある方から伺ったお話をヒントに、読み解きを進めていた時のこと。
もう大分使い古された感のある“リア充”と言う表現に、改めて意識を向けていた。
リア充とはリアルが充実している、つまり仮想に依らない実生活が充実している状態のことらしい。
そこに示されているリアルが、どうにも奇妙なものに感じられたのだ。
すると、上から面白い言葉を振られ「!」と膝を打った。
偽アル
「偽アル」と言う字と「ぎある」と言う音の両方を一度に示してくれたので、一瞬で霧が晴れて視界が開けた爽快感があった。
偽アルとは、偽りのリアル。
自分はリア充ではないと感じている人々が
「どんなんだったら充実なのか」
の定義をいちいち作った、象徴的である為に結果として非常に限定的でもある充実。
その限定充実によって充たされる、器として設定されたリアルが、偽アル。
単に恋人の有無だけで分ける簡易的なリア充判定もあるが、もっと様々な面で充実しているかどうかを見るリア充判定もある。
その充実と言われる要素を分解してみると、
コミュニケーション能力が高く、
恵まれた容姿や得な性格を持ち、
恋愛関係にある特定の相手が居るか、
又はいつでもそうした相手が出来る程モテており、
集団内で上位に置かれ続け、
物心両面での恩恵を受け続け、
その結果、人気もついて来る。
ざっとこんな感じ。
これらは大体が「全体の中で特別に秀でていると評価される一部」のことを言っている。
だがご承知の通り現実とは、特別に秀でることによって充たせる程度の狭いものではない。
現実の可能性は計り知れない。
無限の虚空から生まれているからである。
人はその「計り知れない可能性」に、簡単に「秀で」を挟み込み、「計り知れない秀でる可能性」と書き換えて未来を夢見たりする。
この書き換えがリアルを偽アルにする。
偽アルを求める書き換えにも、それなりにエネルギーの提供がされていたのが不覚で体験をすることがテーマだった旧世界。
新世界にはそうしたエネルギー提供がなく、現実を好みの形に編集しようとする動きは目に見えて老朽化が進みガタピシしている。
リア充の理想的な味付けをした偽アルも、リアリティーショーの衝撃的な味付けをした偽アルも、とっくに限界を迎えている。
色褪せて綻びや薄っぺらさが目立って来ようが、加減のきかなくなった番組で死人が出ようが、変わらずそうした古いおもちゃで遊びたがる人々も居るだろう。
現実に神性を感じない鈍さが、
現実を玩具化する。
リアルを名乗りながら現実をおもちゃにして都合よく遊んで来た一人一人の思惑は、不覚的には「ささいなこと」と感じるようなもの。
好かれたかっただけ。
憂さ晴らししたかっただけ。
人気を示す数字が欲しかっただけ。
不満を訴えたかっただけ。
求められたことをやっただけ。
切りがないが何にせよ言えるのは、ささいであろうがなかろうが現実を都合よく編集しようとすることは、これから益々高くつく。
目に見えてグシャッと崩れる場合もあるし、見えない内側から次第に崩れて行く場合もある。
どちらにしても不覚の予定調和に支えられていた頃からすれば驚く程、高い代償が発生する。
現実の神性を無視したままではどうにもならないので、現実世界を「俗」とし精神世界を「聖」とする偽アルも、形を成さなくなって行く。
これから世界は、リアリティーショーの出番がなくなる位リアルでの争いが激化する。
煽られる不満や不安、様々な差別の露呈、正として邪を責める動き、利権の奪い合い。
これらに引火する沢山の火種がコロナを切っ掛けに蒔かれたので、エゴの在庫一掃セールみたいな賑やかさになって来る。
意識に蓋をして知らんぷりでやり過ごそうとしても、何処に居ようと不安はつのる。
目の当たりにするものをどれだけ愛で観察出来るか、またそれらを観察することによってどれだけ愛を深められるかが、重要となる。
2020にどれだけ内側が進化・深化したかが、表に大きく現れるのが2021。
現実は編集を必要とせず、着実に新しくなっている。
彩色や加味のないそのままを、存分に味わって頂きたい。
人にリアルは作れない。
(2020/6/1)