《ママとマスター》

 

朝活、就活、婚活、妊活、離活、終活、ソロ活、パパ活。

 

「色んな活動があるもんだ」

 

この所の不覚社会は、何かと活動に題を付けたがる。

 

学級活動を略して学活と言うが、これは個人が自主的にするのではなく、既に用意されているもの。

 

「よしやるか」で始めるのは就職活動、略して就活がその始めで、後の色んな「○○活」はそこからの派生と言える。

 

音はまるきり一緒な、人生の終わりを見越して準備する終活なんてのも出て来たので、

 

「しゅうかつから

しゅうかつまで…」

 

 

と、揺り籠から墓場までみたいな感じで口にしてみた。

 

パパ活とは、平成時代前期辺りで言う所の援助交際みたいなものだろうか。

 

退屈しのぎのお小遣い稼ぎ的雰囲気が濃い時代には“援助”程度の金銭授受でも、ジリ貧で不安定な社会を経済面・精神面で安定させて何とか生き抜こうとする最近では、死活問題

 

だから入った「活」の字かも知れない。

 

  

軽そう明るそうでいて、目が笑ってない感じの窮屈さもある。

 

このパパ活に対しママ活があまりと言うか殆ど聞かれないのは、何故か。

 

これは女はそんなことしないとかではなく、子を産んだ母親以外で「ママと言えばこれ!」と言う立場が既にあり、世に知られていることと関係している。

 

クラブのママ、バーのママ、スナックのママ。

 

 

更に各種チーママも含めると、もうママだらけ。

 

「ママ活」と言う時、「女性が年下男性との金銭授受によって何かのニーズを満たす活動」なのか「何らかの職業的ママになろうとする活動」又は「何らかの職業的ママとしての活動」なのか、良く分からなくなる

 

だから広まらないのだろう。

 

ママはお金を払う者ではなく、お金を受け取る者と言うイメージがある。

 

ママの元にはお金が集まる、そしてママであることが仕事になる。

 

 

逆に、パパには何の職も当てはまっていない

 

職について収入を得ている男性「○○さん」は、誰かのパパでもあるかも知れないが、それがそのまま仕事になりはしない。

 

むしろ「職場にパパは持ち込むな!」の意識で、仕事をして来たのが世のお父さん達。

 

仕事一徹で家庭を顧みないと見なされて来た人々は心が冷たいとか鈍感とかではなく、単に仕事からプライベートへの“パパ切り替え”がちゃんと作動してなかった節もあるのじゃないだろうか。

 

お目にかかる機会のある方々にはお伝えしたこともあるが、何らかの職業的立場でママに対するものとして挙げるならマスターである。

 

 

店の主人=マスター

 

店の女主人=ママ

 

バーやスナック、そして喫茶店にはマママスターが居たりするが、そう言えばクラブのマスターは見たことがない。

 

マスター生息地とママ生息地には、多少分布のズレがある。

 

マスターとはその場の代表者であり、経営者以外に達人師匠のことを意味したりもする。

 

男には相手が癒され安らげる包容力よりも、何かしら結果を出せる技能・手腕が求められることがこの「マスター」と言う呼称に表れている。

 

 

「パパ=お金を渡す人」のイメージが強いことも関係しているかも知れない。

 

を不覚が理解し得ないことの証明みたいになっているのが「愛人」と言う変てこの極みワードだが、これを聞く時、殆どの人が女性を思い浮かべるのじゃないだろうか。

 

男はそんな立場にならないなどと言うことはなく、愛人が男である場合もあるだろうに。

 

年上の女性に養われる感じで付き合っている男を、彼氏ではなく「若い燕」と言ったりした時代もある。

 

ここから気がつけることがある。

 

 

お金を渡す立場じゃないと

 

男は人間にならない

 

鳥より人が上等な訳では全くないが、お金持ってる側じゃないと人間としてカウントされない」のは結構、厳しかないだろうか。

 

ガラスの天井だとか言われてるものが人々の意識から消え、風通しが良くなって初めて人類は「男に対しやたら上がっていたハードル」の存在を認めるのかも知れない。

 

 

女達が、自分側を塞ぐガラスの天井には気づいても、相手側にあるガラスのハードルには気づかないのなら、どれ程に正論だとするものも結局は、自分中心に快適さを拡げようとする動きに留まる。

 

それは当たり前に、力尽きるまでの堂々巡りとなる。

 

「自分!」と意識する我こそ幻であると認める時、ようやく見えて来るものもある。

 

職業ママの包容力やマスターの技能では埋められないものが、明らかになるのだ。

 

 

ママもチーママも、パパもマスターも、皆が皆、全母

 

そして本質的には全母たる虚空と同じ。

 

このことを知ろう理解しようとする時、却って意識全母性から離れることもある。

 

必要なのは感覚記憶を呼び起こし、復活再生して、只「それがそれである」認めることである。

 

母でないもの、誰一人なし。

(2021/4/22)