《ファッションチェック?》

 

もう殆どないが、未だごくたまに「心配なことや望み通りにならないことに気を取られて目覚めに集中出来ない」と言った話を聞くことがある。

 

心配事が消えたり望みが叶ったり等の様々な「こうなりたい状態」とは、着たい服みたいなものだ。

 

どれだけ本人が「それが普通・当然・自然だと思うので」と言っても、前もって何か特定の形をイメージしてそれを求めるなら、やはり思い設けている“着たい服”である。

 

 

目が覚めてなる「誰でもない者」とは、意識が素っ裸になっている状態。

 

 

何の意図もないから瞬間瞬間、そこに相応しい姿として新生する。

 

つまり冒頭の様に、

 

「心配なことや望み通りにならないことに気を取られて目覚めに集中出来ない」

 

「だから、どうにかそれらを変えたい、変えて欲しい」と求める者は、

 

素っ裸になりたいので、これこれこんな感じの服を着せて下さい。

 

と、言っている。

 

自ら以外の、例えば家族に不満があるなら、

 

素っ裸になりたいので、家族にこれこれこう言った服を着せて下さい。

 

と、言っている。

 

てんで矛盾しているのだ。

 

素っ裸になることと、好みの服を着ることはまるで関係がない。

 

 

勿論、家族に自分好みの服を着せることと、素っ裸になることもまるで関係がない。

 

家族のファッションチェックとコーディネートが完了したら、

本人の服がバリーンと裂けてマッパになるとは、どんな奇跡だろうか?

 

目を覚ますことは、個の制限で固まりまくっていた自らが「誰でもない者」として新生することの開始にあたる。

 

 

「様々なエゴを抱えた人達に囲まれていると、気分が重くて目を覚ますことに集中出来ません」

 

 

こうだと、もっともらしく感じるのかも知れないが、

 

「ダサい恰好でうろつかれているので、裸になれません」

 

であれば、「正気?」「それとあなたが脱ぐの脱がないのと、一体何の関係が?」となるだろう。

 

人の恰好が気になるならば「自ら以外の有り様が気になってしまう集中力のなさや偏見」を認めて、それらから卒業する必要がある。

 

 

自分は良いなと思っていても、相手にはサイズが合わなかったり首回りがきつかったりして苦しいだけでしかない服を、無理やり着せようとするなら、それは当たり前に弥栄ではない

 

自らにしても、“痩せたら着たい服”を意識内に飾るだけで溜息をつき続けたり、まして痩せている様に見えた人に「それになりたいんです!」訴えるのも弥栄ではない

 

世間で良く行われているダイエットにしたって、望んだ服を着こなせるボディーを、良いなと思うスタイルの人におねだりして手に入れた人など見たことがない。

 

 

人型生命体は気分による連動影響し合っているのは確かだが、意識が自立していれば周囲にとらわれずに行動することは可能である。

 

言い訳せず飾らずに内観してみれば、結局人の恰好があれこれ気になっていたのは「自らの首元のボタンを外すのが億劫だったから」と分かる。

 

自らするのが面倒だから誰かを着換えさせてからしよう、とは「自他はない」の曲解と濫用である。

 

意識の自立を果たし、覚の世界に溶けた者として「はい、ここに一つ居りますよ」と申し上げることは出来るし、そうしている。

 

 

そんな者の存在を知っても、まだ自立出来なさで遊ぶなら、それはそうしたいだけなのだ。

 

誰でもない者であることが当たり前になるにつれて、「○○さんらしいよね」や「○○さんはこうだけど」の様な“これ”に向けてのお言葉を不覚バリバリの人々から頂戴することもおよそなくなった

 

目覚めに向かう伴走者としてお目にかかる方々の中には、会う度に「こんな人だったっけ」と“これ”違った者の様に見えると仰る方も居られる。

 

そりゃそうだ。

毎瞬変わって行っているのだから。

 

 

“これ”の中に「この様に見られたい」又は「見られたくない」の注文は一切ない

 

そんなもの、見る方の自由である。

 

王様ではないので「あの人、裸じゃん?」と言われてもお構いなし。

 

むしろ「よく裸だと気づきましたね!」拍手するかも知れない。

 

「覚めているって素敵、いいなぁ」となる人は、覚めているってこんな感じとイメージ上の衣装を用意して、これまたイメージした覚者に着せておめかしさせていることもある。

 

 

 お人形遊びである。

 

やりたきゃ好きなだけやるがいいが当たり前に、

 

誰かの着せ替えでは、エゴは脱げない。

 

余所見は自由が怖いから。

(2021/2/22)