《デコ聖書》
心に響き人生を変える程の変化をもたらした敬愛する先人の著作を指して、
「これが私のバイブルなんです」
と、影響を受けた側が紹介する下り。
10年位前まではあったような気がするが、いつの間にか見かけなくなった。
それもそのはず、人の拘りが細分化され、「私の世界」が「ある一冊」で変わることは中々なくなった。
不覚社会を眺めていると、そうした拘りの時代も相当煮詰まって来ていることが分かる。
共同体の力が弱まり、個性が重視される時代になった後、肥大した各人の自意識は、
「これが正しい」
「これが美しい」
「これが好き」
等の情報を個人的に集め、スクラップブックの様に切り貼りしたものを纏め上げる様になった。
そこにはアイドルや俳優、スポーツ選手、文化人等の「大好きな○○さん」のイメージ画像が貼られたり、
「心に響いたあの名言」か刻まれたり、
「好きな作品のあの場面」や「感動したあのエピソード」が、動画で保存されたり、
盛り沢山。
中世の、
「み~んなイエスって言うワンポイントでお揃い♡」
みたいな聖書ではない、複雑怪奇なマイルールで味付けされ、盛りに盛られた意識内バイブル。
デコ聖書である。
もう書かれている内容よりどれだけデコれたかが充実度のバロメーターみたいになっているので、デコ聖書は人によっては辞典並みに分厚い。
拘りの強い人はこれを抱えて世間を回遊し、出会えた人に読み聞かせる機会を窺っている。
否定されるのが怖くて、門外不出の神秘の書みたいな扱いにしている人も、「ふとした切っ掛けで」「図らずも」内容が認知されることを望んでいる。
マイ聖書の内容を語りたい欲求は、そうした‟聖書持ち”なら多かれ少なかれ持っている。
しかし、他に読んで聴かせたい人は大勢居ても、人の聖書内容を拝聴したい人は少ないので、大抵揉める。
どっちが読むのか。
聞く耳は持たないのに、口はムズムズし、終いには
厚みを出した聖書の角で殴り合い。
デコっているとこう言う戦いの時には有利である。だがそれは当たり前に覚醒とは何の関係もない。
聖書とデコりの時代に感じたのは、
「好き」への切迫感が違って来ていると言うこと。
大好きなものに依存しなくても「何となく生きて行けた」ぬるい空気の時代とは大分、違っているのを感じる。
誰かや何かを推すことで激しい熱意が内側から出るのを感じていないと、生きている感覚が分からない。
好きなものの一つも作っておかないと、この刺す様にヒリヒリする時代の空気に耐えられない。
当宮にお越しの極めてグッドセンスな皆様におかれましては、今更拘りなど残っていてもぺら紙一枚程度と言う方が殆どで、この様な話はピンと来ないかも知れない。
しかし煮詰まる不覚社会では、こうした狂乱の渦が激しさを増している。
それを目の当たりにして驚かれた際には、下記のことを実践なさって頂きたい。
そうした狂騒曲じみた動きに同化せず、
素晴らしいものは素晴らしいと認めても、マイ聖書に書き込んだりせずにその場で祝うことのみに集中し、
瞬間瞬間の歓びと共に手離して虚空に還して行くこと。
変容の門は身一つでくぐる。
聖書背負って通れる様な隙間はないのだ。
引っ掛かってジタバタ。
(2020/2/17)