《まとめてどうぞ》
駆け抜けてから気がついたのだが、10月は他の月の倍を超える量の仕事をしていた。
月末も嘘だろとなる程、色んな動きが目白押し。
明けた金曜日の晩にふと振り返り、感慨深くそれを称えた。
「いやあ、今週は凄かった。
特に、月曜火曜水曜のわたし。
まとめて抱きしめたいな。
生憎と、ここには居ませんが、あっはっは」
こんな、端から見たらイカレてるとしか思えない様な一人言が飛び出した。
一応申し上げるが、素面である。
一滴も飲んでいなくとも、全力でやり切った実感から来る心地よい爽やかさでちょっと高揚していたかも知れない。
高揚のおかげか突然、閃いた。
「まぁ、ちょうどここに金曜日のわたしが居る」
月火水のわたしも、木だって、まとめて金のわたしに入ってるじゃないか。
「まとめて、そーれ
ありがとう 」
と、交差させた両腕を体に回して抱きしめてみた。
本だったかドラマだったかで見聞きした、「自分じゃ自分を抱きしめられないんだよ」と、人は一人じゃ生きられない的な意味で言われただろう台詞を思い出した。
何の、余裕で行ける行ける。
寧ろ、自らに抱きしめる程本気の感謝を捧げられなければ、誰と抱き合っても一時寂しさを埋めることにしかならないのじゃないだろうか。
人が居合わせたら、確実に正気を疑われるだろうポーズをしながら、先程の「月~木のわたしが金曜のわたしに入ってる」の閃きを、反芻し味わい直した。
宮司を名乗る“これ”は普段、世に数多ある様々ないのちを「色んなわたし」と呼んだりもしている。
それらが横に広がるわたしであるなら、過去として既に昇華されたわたし達は縦に延びるわたしと言える。
縦横どのわたしも、私を超えた「渡し」である。
わたし達は本来弥栄の歓びを渡し、拡げて行くもの。
完全燃焼で渡すことが、何よりもいのちを輝かせる。
「あの時ああしていれば」
「あんなことさえしなければ」
「もっと良い方法が」
こんな風に過去を振り返り後悔の念に苛まれる人は、不覚社会にごまんと居る。
だが、どんなに頭の中で蒸し返しても過去を気に入った風に調整することは出来ない。
調整なしの一切合切、今の今この瞬間を起点に、まとめて抱きしめ祝うことは出来る。
早い遅いを言っている場合ではないし、そもそもそんな必要はない。
今の今、愛と感謝を捧げればいいだけだからだ。
思い切り、ギュッと行ってみよう。
(2019/11/5)