《まつる花》
4月8日は釈迦の誕生日とされ、この日を中心に各地でバースデーを祝う花祭りが行われる。
美しい花々が咲くルンビニーの園で誕生したエピソードから、花で彩る祭りとなった。
花祭りでは、お堂を花で飾った中に、誕生仏と呼ばれる生まれたての釈迦を示す仏像をセット。
仏に上から甘茶をかけて祝う。
イエスはこれだと見込んだ相手であるヨハネから洗礼を受けたが、釈迦の丸洗いはもっと間口が広い。
毎年洗っていいし、誰でも洗っていいし、幾らでも洗っていい。
小さな誕生仏を甘茶で洗いながら、人は自らの内なる仏を洗い清め、そして祝福することが出来る。
釈迦と自らの間にある自他の垣根を外し、花に囲まれた誕生へ祝福を注ぐ時。
当り前に、自身にも祝福が贈られる。
釈迦は生まれた当日、丸洗いだけでなく
「四方に七歩ずつ歩き」
更にはあの有名な
「天上天下唯我独尊」
を、発したと言われている。
「よっ」と言う声が聞こえてきそうな姿に、か~わいいな~と誕生仏を眺めていたが、生まれた初日が仕事始めとは、働き者。
それにしても四方に七歩って何だろうか。
最初に七歩進んだ所で方向を変えるのか。
「まず右に七歩、そこから左に…」
まるで暗号の地図を手掛かりにした宝探し。
これだとどう行っても最終的に、四方に広がる歩みにならない。
「???…どうやっても作りかけのレゴみたいになるんですけど」
四方への歩みが何で「七歩」なのかと言えば、人が陥る六道の迷い苦しみに「+1」して、超えて行く姿を示している。
そこに意識を向けてみたら、ひょいと分かった。
「七歩ずつ四方に歩く」とは、生まれたての釈迦が、よいしょよいしょと両足で歩んだのではなく、
七つの体のエネルギーが一度に四方に広がる様子を表している。
成る程とスッキリした。
七つが広がる必要がある。
偏らず四方に広がる必要もある。
そしてそれだけではまだ、限界がある。
そこを超えることも分かって口笛を吹いたが、今の今、申し上げはしない。
現況の2019と、余りにも差のある内容だからだ。
四方に七歩の後に続く「天上天下…」については、「我」が入っている時点で、我も何も全体一つでしょうよとなり、感覚的にどうにもピンと来ない。
「天の上でも下でも独りだけ尊いなんつってんの、我(エゴ)だけ。笑っちゃうよね!」
的な意味でないのなら、ちょっと何言ってるか分からない。
花祭りの中で、
祭られる釈迦も、
祭る祝いの花も、
尊いと言うなら両方尊い。
捧げる側だから、沢山ある中の一部だから、枯れ行くものだから、
捧げられる側で、代表的なもので、枯れないものより
尊くないなどとなる訳はないのだ。
寿ぐ祝いに主従なし。
(2019/4/8)