《はるとなり》
先日、ひょんなことから「春隣」と言う俳句の季語があることを知った。
冬の終わりに、ほんのりとした暖かさを感じ「ああ、もうじき春か」と気づくと言うのは、何度経験しても人類にとって嬉しいものなのだろう。
春隣から、不穏な気配やガッカリ感は匂って来ない。
花粉とか決算とかあんまりほのぼのしない要素が含まれていたとしても、春に門前払いを食わせる人を見たことがない。
「はるとなり」の音に、字を「春と成り」とあてることも出来る。
隣に気配を感じる程近くなって、「あれ?」となったら、既にもう春の中。
風は冷たくとも、不覚で言うところの心、覚にとっては意識が、既に春、そして晴るに在ると言うこと。
何であれ、見えない領域が先である。
天意の発動が見える領域に変化を起こすのだ。
外に春が表出する前に、意識に晴れやかな風が吹く。
そして初めて、巡り来るこの春を残さず味わう観察者としての準備が万端となる。
素敵な学びの機会に恵まれたが、俳句自体に格別の思い入れはなく、たまたま行き会ったような感じで知った。
平生、ひょんなことからに満ちた日々なので、次から次に転がって来るひょん達を片っ端から受け取っては楽しんでいる。
これは「何でも、全体に活かせて面白いこと!」とオーダーしているから来る。
ポイントは「何でも」である。
来たものに「わ~、こう来たか!」とビックリしたりはある。
だが、それは受け取らない理由にはならないし、実際ジャンジャン受け取っている。
「何か、お役目来ないんですけど」
「気づきも来ないんですけど」
「そう言うのさえ来てくれれば、動かないって訳でもないんですけど」
と、メッセージ待ちで座り込み中なんて方が、当宮にお越しになったりはまずないだろうが、そうした
「機会さえあれば出来る子」
を、気取っている人々は、オーダー姿勢がピザ屋のデリバリーに対するものに似ている。
「え~と、「楽しさ」と「多少のスリル」と「賞賛」と…、後何にしようかな、あ、「見返り」を足して4種類で」
と、慣れ親しんだ自分のお部屋、不覚の意識領域を一歩も出ずに電話で注文。
そして頬杖ついて、クワトロ何ちゃらが届くのを待っている。
そうした要求はおそらく上には届いていないし、聴こえていたとしても、そんなピザ的に編集した役割は送って寄こさないだろう。
春になると「何だか動いてもいい様な気がする」と、意識が警戒を解いて緩み始める。
そうした時こそ、エゴ編集しない丸ごとの愛での「何でも!」のオーダーは大切である。
「何でも」と、なれない場合は、そこを活かして「そうまでして嫌なものって何か」を観察されること。
恥をかくのが嫌なのか。
贅沢するのが嫌なのか。
控えるのが嫌なのか。
従うのが嫌なのか。
決めるのが嫌なのか。
不覚の意識にとって「嫌と感じること」は、沢山ある。
選り好み7DAYSで、長年暮らして来たからである。
だが、思い切ってその「嫌」にも意識を向けて風通しよくしてみると、春の息吹はそこにも吹く。
春は、ものみな動かす季節。
是非この機会、十分に活かして頂くことをお勧めする。
晴々となり祝う春。
(2020/2/20)
来週は火・金の更新となります。