《つわもの志願?》
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
松尾芭蕉が、実際は新暦で言うと6月の末頃に詠んだ句である。
その頃の地球は小氷期と呼ばれる時期に入っており気温は全体的に低め、しかも場所は北国の平泉。
大分涼しかったろうし、もの寂しさ、虚しさ、諦観、様々な気配が感じられ、「暑い中で夏草もじゃもじゃ」感はない。
「また40度?」
「フェーン現象!」
「猛暑…」
「酷暑……」
が、飛び交う現代の今時分に出すものでもないのだが、近所の空き地に伸びる夏草の力にビックリした拍子にこの句を思い出した。
たまに人の手が入って刈り取られるが復活までが速く、刈っても刈っても元通り。
地肌が見えるまで刈られた高校球児スタイルがあっと言う間に、狼に育てられた子みたいな凄い状態に変わっている。
意識が伸ばす思考の‟雑草”は丁寧に引き抜く必要があるが、天地の間ですくすく育つ空き地の夏草達からは、服や髪を整えても憂鬱そうな顔で歩く人々にはない、生命力の美を感じる。
人の手で水を撒かれたり肥料を貰わなくとも、地の力と天水の恵みで十分にぐいぐい伸びる。
その迷いのない姿に、天地と繋がることの強さを改めて理解し、感謝した。
いつの間にか、蝶が舞い、バッタが跳ねて、雀も草の間を出たり入ったりしている。
「人間目線」と言う制限が外れた状態で眺めると、草ぼうぼうの空き地はもの寂しさではなく、「生きてる!」と言うシンプルな歓びで溢れている。
兵どもの様々な企てがどう崩れ、どう行き過ぎようと夏草は只、伸びるのみ。
途中までどれだけ勢いがあって我が世の春を謳っていても、季節は変わり風向きも潮目も変わる。
企てに使う知力や体力、気力が衰えた途端、全体一つの波に押し流され、やがて沈んで消える。
まともに歴史を観察すれば企てに使用期限があることなどとっくに分かって良さそうなものだが、それでも世の中に在って「強者でありたい」と望む人々は、企てをやめない。
強ければ、主権を持てると思っているから。
だが、この世の企てを回しているのは強者ではなく、エゴである。
力を求める強者志願は誰であれ、エゴプログラムの合戦ごっこに駆り出されるおもちゃの兵なのだ。
兵同士の中で大将だと言われても、沢山の戦いを経てどんなに力を振るっても、エゴの兵に主権はない。
兵であり、そして虜である。
魅力に夢中になることを「○○の虜」と言うが、兵達は争いの虜、獲得の虜、勝ち負けの虜。
まとめてしまえば、エゴの虜。
そうした者達の夢の跡にも新しい命を巡らし、世界は成長し続けている。
見事なものである。
沈むも溶けるも、自由な世界。
(2019/8/19)