《だけじゃない世界》
あまり縁のなかったスポーツ関係のニュースも観察する様になって、先日「他国のサッカー選手が日本人に差別発言」と言う記事を発見した。
記事を読み、起きた出来事に関するコメントを眺めていたら、その発言をした選手が籍を置く国の名を挙げて「○○人は差別的だから」とするものがあった。
「それだって差別なのでは?」
冗談みたいな話である。
こんな調子でそれだって十分どうかしている発言を、ちゃんとしたこと言ってる気分で放っている人は多い。
そして勿論そうじゃない人も居る。
差別は主に、偏見から生まれる。
覚めていない状態ではものの見方に偏りがあって当然と言える。
多かれ少なかれ偏見も差別も、人は意識の中にプログラムとして入れており、それぞれに作動させている。
向き合い消化・昇華して行く為のプログラム設定なのだが、「差別こそエゴの醍醐味!」と偏見と共に好んでそれで遊び続ける人々にとっては、大事な玩具だ。
大人になる進化変容の道具とするか、エゴを太らせる玩具とするか、偏見や差別のプログラムも使い方によって全く違った役割を果たすことになる。
強い偏見や差別の癖を抱える人は、正義中毒や自分中毒になっていることがままある。
正義中毒も、正しくあるべき世界像中毒と共に正義の人である自分中毒を併発させているのでこれも又、自分中毒の一種と言える。
自分中毒の症状が重い人程、不特定多数の人に向けて書かれたものについて読んでも、「これは僕・私のこと!」となる。
重症度が増すごとにこうなって行く。
これは僕・私にも言えることだな。
これは僕・私に丁度当てはまっているな。
これはきっと僕・私のこと。
これは絶対僕・私のこと!
三番目や四番目には「僕・私」と「の」間に、「だけ」を入れてもいい。
その発想の源には被害者意識や主役願望、主要の夢がある。
だが、不特定多数に向けて書いたものが一個人に向けられる意味って特にないし、必要もない。
書いている側も大抵は、誰か一人に向かってそんな時間や力をかける程、暇じゃないだろう。
だから、書かれてあることや書いた人対自分で、意識のお喋りを延々続けることも意味がない。
勿論、続ける目的が暇を潰すことであれば話は別だが。
当宮記事については、書くことを担当しているのは宮司を名乗る“これ”であっても、“これ”的に書きたいものと言うのは特にない。
その時々で必要と示されたことについて、書記の役割を担っているだけなのだ。
そうでなければ、こんなペースで書けやしないだろう。
もし書いてあることにドキッとしても、何か特別な縁がそちらとこちらだけに結ばれている訳ではない。
スプリンクラーの様に全方位に放たれたものが当たって、「ひゃっこい!」とか「沁みるわ~」となっている。
それはあなたにだけ沁みている訳ではない。
個としてのあなたは居ない。
あなたと信じた要素や条件や癖の集合体があるだけだ。
僕・私だけの世界にしてよ
と言う願望を抱えたままでいる自由も勿論ある。
だがそのままで真の大人になることはないのだ。
だけじゃないから面白い世界。
(2021/7/8)