《さんげさんげ》
“さんげ さんげ…”
薄桃色の花が舞うビジョンと共に、このフレーズがやって来て、「ん?」となった。
散華(散花)とは 花を撒いて仏を供養すること。
法要で蓮華や、葉の形が蓮に似ている樒を撒くこと。また、蓮華の花びらを模した紙を散布すること。
更には、花の盛りで散るイメージから、死ぬこと。特に、若くして戦死することを言うらしい。
如来や菩薩と言った仏達が現れる時に空から花が降る、と言う話に由来して仏を供養する方法として、採用されたとのこと。
リング上のレスラーに舞う紙テープみたいなものかも知れない。
さんげさんげと言えば、修験道にこんなフレーズもある。
「懺悔懺悔、六根清浄…」
山岳宗教である修験道。唱えながら山を駆ける修行をする。
祈りの対象である自然が母の胎内、山を曼荼羅として人はその中で生かされていると言う世界観を持つ。
この懺悔懺悔は所により濁らして「ざんげざんげ」と言ったり、慙愧懺悔としたり、それを又「ざんぎざんげ」と濁らしたり、反省しきりみたいな意味で重めの雰囲気なのに、割とフワッとした面もある。
懺悔とは、神仏や他者の前で罪悪を告白し悔い改めること。
慙愧(慚愧とも)とは、自らの見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。
古くは「ざんぎ」とも言われたが、現代では「ざんき」。「慚愧の念」と言った表現で使われる。
修験道のお馴染みフレーズは随分昔に作られたことが分かる。
比べてみると、慙愧は内向きに、懺悔は外向きにエネルギーが流れていると気がつく。
砕いて砕いて分かり易くすると、
「うわ~めっちゃ恥ずかしい!
けど、思いきって言うね!
実はこんなことやっちっち!」
と言うことだろうか。
そして、それを洗ってピカピカに。
結構長い間、色んな宗教は色んなスタイルでこのクリーンアップキャンペーンを続けている。
だが、受け容れてくれる世界と、修行する自分が“別のもの”として認識されているなら、全体一つに溶け合うことはない。
もし、山での修業中に何かの拍子で全体に溶ける体験が起きたなら、その者はおそらく
「声出して行くよ!せーの!」
的な修行は“卒業”して離れるんじゃないかと言う気がしている。
その位、覚はマニュアルが要らない世界だ。
恥じたり、悔い改めたり、とにかく駄目なとこを削って埋めて成形するやり方では、きりがないし質は変わらない。
「なおしたよ」と言う、体験の量が増えるだけ。
懺悔も、もう散華で良い。
毎瞬毎瞬、昇華して、ぱっと手放す。
思い残しなく、只々今の祝福を以て虚空へ還す。
そして、似た様な焼き直しではない新体験を意志する。
これで十分だし、
これが本来である。
(2020/10/29)
《10月のふろく 凡散華》
蓮でなく桜で散華をこしらえてみました。
パラパラと吹雪の様に散る様が、点滅らしさを良く表しているからだそうです。
三枚のお札ならぬこの三つの桜に、「これまで散らすことが嫌だったもの」をお書き下さい。
人により、それは様々です。
何か特定の物なのか人なのか、何時かの思い出なのか、姿形なのか、財産なのか、能力なのか、価値観なのか、美学なのか。
本当に様々です。
それらを出来るだけ中立にそして天意からの愛を込めて、文字にして書かれてみて下さい。
清算でなく、昇華。散らしたくなかった自らのエゴも含め、その書かれたものを祝福されることです。
散華には、花の香りによって悪鬼を退却させ、場を清める意味もあるそうです。
香りをつけて楽しんでみられるのも、面白いかも知れません。