《きれいの呪》
「美しい」ではちょっと大げさな感じがする時に、人はその代替として「きれい」を使う。
このきれいによって意識が散らかることがある。本日記事ではそれについて書かせて頂く。
「あの人、美しいわねぇ~」
とは、誉め言葉としてあまり聞かない。
「あの人、美人ねぇ~」
は、なくもないだろうが、覚めないまま言っている「美人」には生まれ持った顔のパーツバランスが多分に関係する。
それに合致しないとされる顔達に配慮するのだろうか、この誉め言葉もそれ程頻繁には聞かない。
だが、こちらについてはかなり多くの不覚の人々が好んで言ったり聞いたりするのじゃないだろうか。
「あの人、キレイねぇ~」
不覚の世に数多ある判断基準に照らし合わせて、より秀でていると見なされる整った容貌。
こうしたものを“美”とするなら、“きれい”はもっと範囲が拡がる。
そして、きれいかそうじゃないかの境界が曖昧となる。
全体ぼんやりとしているので、Aさんが「あの人、キレイねぇ」と言って、Bさんが「あら、そうかしら。私にはそうでも…」と内心なっても、両方が揉める前に「まぁ、人によってはそう見えるかもね」と落ち着き易い。
曖昧だし、そんなに値の張る賞賛でもないから捨て置けるのだ。
美人が「世界三大」とかでっかく持ち上げられるのに対し、きれいな人はおそらく一部地域でちらっと目立つ「○○小町」位の気安さ。
何たら小町は○○銀座みたいなもので、戸越銀座だとか、世にそうした銀座が幾つあるかなど人はあまり気にしない。
「まあ、そこにも銀座があるのかもね。あたしは行ったことないけど」
みたいに流せる。
そんな風に便利かつ気軽にちょっと盛り上がれて、ぱっと見何の邪魔もしていなさそうな“きれい”。
しかし、きれいには「美しい感じがする」以外の意味がある。
「清潔・清浄である」
と言う意味。
ドラッグストアでキレイになりたい人々が使う品の並ぶ界隈をずーっと眺めてから、掃除用品の並ぶコーナーに移るとそこにもキレイを叶える商品がどっさりある。
ちなみに、イメージをふんわりさせたい時には「きれい」、スマートに強調したい時には「キレイ」としている様である。
漢字の「綺麗」だと画数が多く重い感じになり、キラキラ感が増す。
こうした多面性も、きれいのもつ境界の曖昧さを示している。
そしてこの曖昧さに包まれた目立たない罠を発見した。
綺麗好きとは、外見に軽めの魅力を出したい人ではなく、掃除や整理整頓を好む人のことだ。
「キレイになりたい」
と人が求める時、そこに「浄不浄」のイメージが重ねられていることに気づいた。
それは
「キレイじゃなかったら、汚いのだ」
と言うジャッジに繋がり、呪となる。
御神体を慈しむことで、人型生命体の輝きは自然に増して行く。
その過程を楽しむのに、キレイを求める商品をスパイス的に活用するなら、味わい深い体験も出来るだろう。
だが汚さを恐れて、避けたり排除する為に「キレイになりたい」と欲するのなら、それは相当辛いことじゃないだろうか。
キレイを求める浄化運動に、目鼻口のバランスや太っているか痩せているかや、老若についてのジャッジも割り込んで来ると、何と言うかもう苦しむ為に設定した複雑怪奇な刑罰にしか見えないが、結構人気のセルフ罰である。
「何の刑にも処されていないのになぁ」
と、フワフワした掃除用のキャッチャーとか色んな香りと蒸気の出るアイマスク等愉快な商品を買うついでに、化粧品コーナーのテンションの高さもざっと歩いて観察している。
歩きながら静かに意識を向けると、歓声と悲鳴とが紙一重みたいなものが伝わって来る。賑やかなことだ。
不浄を追い払う浄化と、体験を祝福する昇華には明確な違いがある。
浄化と
昇華の
違いは、
ジャッジが
あるか
ないか。
「浄不浄」として浄の清さを謳う時、同時に不浄の汚さを指摘している。
不覚全盛期には表現の一つとして浄化が必要な時代もあった。
只、浄をどれだけ求めても、やがて必ず不浄が発生するのは何故か。
そこに裁かれ、祝われぬものがあるからだ。
これが浄の限界である。
昇華は何も裁かない。
昇華は消化でもあるが、消化は飲み込まないと出来ない。
大祓詞にも明らかである様に、真の祓いは追い払いではなく、飲み込むもの。
飲み込みに必要なのは優劣を線引く手腕ではなく、丸ごと受け容れることの出来る無限に大きく拡がる器なのだ。
美の足元は大である。
呪は祝で解く。
(2020/11/16)