年に一度、お集まり頂いた方々と毎回違う場所にご一緒して当宮の祭をさせて頂いています。
今年の祭は開催地について、上の方で少しヤンヤヤあった感じでしたが、ようやっと「そもそものテーマに沿った場所」に落ち着きました。
他の候補地へは別途宮司が出かけて、筋を通して来ます。
今週木曜に、記事とは別にご案内を書かせて頂き、受付も同日から始めさせて頂くことにします。
とりあえず日にちのみ、お知らせ。
2019年10月13日(日)となります。
では本日記事へ。
《からまでだけ》
以前に雑誌か新聞で読んだある記事の中で、ふと目についた表現があった。
東大からの人
東大までの人
東大だけの人
東京大学に入学・卒業するのは同じでも、それ以降に単に東大を出ただけでは成しえない成功をして行く人が「東大からの人」。
経歴によって与えられた役割を、そつなくこなすに留まるのが「東大までの人」。
「入って出たぞ!」が人生最大の勲章になるのが「東大だけの人」。
記事そのものはあまり印象に残らなかったのであらかた忘れてしまったが、大体こんな括りだった。
ふと思い出したのは、これを東大でなく「目覚め」に関して分けたらどうだろう、と浮かんだからである。
勿論、東大に入って出ることと、目を覚ますことは全く質が違う。
与えられた条件をクリアするのは一緒。
だが、
「不覚常識の範疇に留まる出題に対し、
制限時間内で相応しい回答をする」
のと、
「不覚の人として感じられる幸不幸、
得られるもの得られないものの全てから手を放して、
それらが二度と戻らないことも了解する」
のは、全く違うことである。
それでも「からまでだけ」を目覚めにあててみると、存外ぴったりとはまるのだ。
目を覚まし、それまでしていたことやしたいと思っていたことに限らず「只今全体の弥栄に必要な、“これ”のする仕事」が分かって、役割を果たして行くのが「目覚めからの者」。
人と呼ぶのは、ちょっとピンと来ないので、3つとも「者」と変えてみる。
目覚めからの者は
変容している。
「目覚めまでの者」には、幾度も起こる覚醒の感覚を味わうのに留まる者があたるだろう。
何で留まれているのかは不明だが
「自身に訪れた平和な感覚に満足して終わり」
となったり、
「一度も目覚めの感覚が起きていない人々の支持が集まって担ぎ出され、そことの付き合いに終始」
になったりする。
「目覚めだけの者」は、覚醒の一瞥が起きた記憶を後生大事に、それを生きる支えとする者である。
一瞥のみを武器にして、「だけ」が「まで」の動きをしようとすると、相当苦しくなるだろう。
まして「から」のことなど想像もつかないので、苦しさを紛らわす為に「だけ」は「だけ」同士での小競り合い位しかすることがなくなって来る。
小競り合いは、どちらの方が優れているかの主張合戦で終わり、そこから何も発展しないので退屈だ。
不覚を本気で全うする人々の方が、余程こちらから見て面白い人生である。
覚不覚問わず、「そこでしか成しえないことをエンジョイしている」端末に興味が湧く。
それ以外については、必要と分かる観察のみ淡々と行っている。
「からまでだけ」に意識が向いたのは、明治から昭和にかけての日本に、ある種の天才ではあっただろう一人の「まで」を発見したからである。
彼は三千人の門弟を育成し、その中から幾人かの「だけ」を輩出した。
その「まで」が世を去った後、起きたのが「だけ」同士の小競り合い。
派閥争いで共喰いが起き、団体は空気の抜けた風船の様にシューと萎んで行った。
「まで」が「だけ」をどれだけ出しても変容には至らない。
そして、やはり天才は世の目覚めには全く以て役立たずだ。
イエスや空海を誤解した人々のわっしょい騒ぎで、そんなことはとっくに分かっていたが、似た様な現象が時代を下るごとに質量ともに小さくなって起きていることを改めて確認し、天才はしゃぎも廃れ易くなっていることを理解した。
混迷の深まる時代。
夢中になって気を紛らわす為の天才や、自分にぴったりなかかりつけとなる名医を探して右往左往する人々も増えるだろう。
だが、才も名も、
覚とは異なる。
目覚めはゴールではない。
「から」の働きを意志する者は、殻を解いて空に還ること。
生ける空となってからが、真の生の始まりになるからである。
からりと晴れる、新世界。
(2019/7/1)