《おしても駄目なら》
不覚社会のあれこれを観察していて時折目にする、特に好ましい存在を支持応援する時に使う“推す”と言う表現がある。
これについて一つ、分からないことがあった。
お目にかかる機会のある方々に、こちらが謎に感じているものについてお尋ねすることもある。
以前もこんなお尋ねをした。
あれは、一体どこに向かって、推しているの?
推が押と違うことは分かる。
どこから、と言う出発点が「推すと言うことをする人」なのも分かる。
だが、力の流れる方向がさっぱり分からない。
何かを支持応援することに興味のない者達には知らされていない応援の果て、約束の地みたいなものがあるのか。
それとも推薦の推なので、支持応援マニアだけが参加出来る総選挙があるのだろうか。
お尋ねした方々も、「どこに向かって推しているのか」については御存知無い様だった。
それにしても何か引っかかりを感じる、奇妙な言葉なのだ。
「ファン、じゃ駄目なのだろうか?」
と首を捻った。
時流に合わせた流行り言葉は、消えては現れを繰り返すものだし、耳に新しく感じる言い回しにはそれなりの力があり、便乗して人のテンションも上がり易い。
だから人々に求められた言葉なのだろうと片付けかけたが、ちょっと腑に落ちない感じもした。
それで時たま意識を向けてこの「推し」と言う謎の言葉を、転がしたりひっくり返したりして居た所、ある時不意に分かったことがある。
ファンとは、対象を支持する人々の総称であり、ファンを名乗る時、支持する側は唯一ではない。
「推し」とは支持する側ではなく、支持される対象を指す。
「○○のファン」は「自分」一人ではないが、「自分」の「推し」と繋げる時、個と個が結び付けられる。
推しとは相手を応援すると言う点から一見利他的である様だが、実はとても自己主張の強い言葉なのだ。
「推してるだけでみるみる目立てる!」ことはないが、支持対象ではなく支持している「自分」こそがメインだ。
推す力に何か方向があるとすれば、「より好ましい自分像」に向かって居るのかも知れない。
だとすればとんと方向性が定まらないのも理解出来る。
推そうとする人の数だけ、目指す方向も様々にあるからだ。
不覚が煮詰まるにつれ、人はどんどん「自分の輪郭をより濃く描きたくなる」ものなのだなと眺めた。
知ってた。
それだけ、意識の集中が保てず自分像がバラバラになり易くなり、己に対する不安感も上昇し続けている。
本道を行く人は、それまでエゴで作って来た自分像が解けて行く過程を自覚的に観察出来るが、
そんな道を行く気のない人々にとっては自分像の分解はトラブルでしかない。
好き放題に改造した車の部品が、走行中にちょいちょい取れて行く感じ。
走りながら追加のパーツを取り付けて補修していかないと間に合わない。
崩れるのが先か、足されるのが先か。
二択の間をふらふらと蛇行しながら、テンションアップのドーピングが必要な人々は、お気に入りを推すことで日々のエネルギーチャージを行って日常と言う道路をひた走っている。
分解のペースが更に速まったら、いきなりばらけたりするのだろうか?
本道を行く人を観察する中で、周辺でいきなりばらけて走行不能になる不覚カーも、ついでに見られるかも知れない。
今更何かを支持応援する興奮で日常をやり過ごそうとされる方は当宮に中々お越しになれないだろうが、もしそうした習慣があり、行き詰まりを感じておられるなら、申し上げられることは一つ。
おしても駄目ならひいてみる
お気に入りへの支持応援を必要としていた面も含めて、
自らを世界の一片として引きで観察し、受け容れてみる。
支持応援を生き甲斐とする人々は、「推しは自らの鏡」と思っているかも知れない。
推しは鏡の枠である。
中に映る自分像が少しでも映える様に、好みに任せてなるたけ豪華にした枠だ。
枠で質は上がらない。
鏡の中を恐れず見ることは、天意からの愛である。
水鏡に、何の枠なし。
(2021/4/12)