《うまいこと?》
日本では梅雨入りした地域もあり、人々が戸惑いと不安で右往左往している間にも、季節は着実に変化している。
湿気に期待とか、いやあのウイルスは湿気にも強いとか、逆に台風等の災害が心配だとか、本当に人は色々見つけてはワーワーするが、雨はそんなことお構いなしに降っている。
陽もお構いなしに照る。
色々ワーワーしているどのニュースも、下敷きになっているのは
「どうにかしてうまいこと行ってくれないだろうか」
と言う願い。
これは変わらない。
どうにかして、うまいこと行くのを狙い、それが当たると喜ぶのがエゴだからである。
ご存知の様に、「うまい」には、「旨い」や「美味い」と字をあてて使うことがある。
食べ物や飲み物の味が良いと言う意味だけでなく、都合が良いとか、好ましいの意味もある。
味が良いことを「おいしい」とも表現するが、おいしい展開、とかおいしい役回りのおいしいには、「旨い具合に」と使う時と同じ、都合の良さが含まれている。
「うまい」は又、優れている方が良いと言う価値観によって、技術や技量が高いことに対して「上手い」とか「巧い」と字をあてて使ったりもする。
これらのうまいの発生を遡ると、果実等が熟すことの「熟む」が現れる。
機が熟すとか言う様に、口にするのにベストな状態になった状態が「うまい」。
熟した果実には、甘くなるものが結構ある。
上にも見られる通り、実際は熟したって甘くない果物も沢山あるが、甘さを人が好ましく感じたことから、うまいの表現が生まれたのだと言う。
「甘い」と書いて「うまい」とする読み方もあるし、「甘美な」と言う表現もあり、甘いと美味いは親戚みたいになっている。
奇妙なのは「甘美」には成熟した状態から来る、言ってみりゃちょっと官能的な雰囲気まであるが、「甘ちゃん」とか「甘えん坊」とかは未成熟な状態。
熟なの?
未熟なの?
どちらでも、その時々に勝手のいい状態が不覚の「甘」であるなら、実に虫のいい、虫にいい味である。
熟とうまいの関係について意識を向けてみると、適した土壌、十分な日当たりや水分等、諸々が揃って実は熟す。
不覚からすればそれは、
沢山の場所がある中でも特に恵まれた一部分に育って生った、とりわけ美味な果実。
この特別さを味わいたいと言う望みと、
物理次元上の展開において、
沢山の可能性がある中で特に都合のいい一部の未来にある、とりわけ望ましい結果。
これを現実のものとしたい望みは、
同じものだ。
そして、まだこの社会にとっての「旨い具合」は、当たり前にエゴにとってのオイシイなのだ。
変容する機が熟してもエゴにとっての旨味はない為、覚めないままで居ればこの世界はどんどん「甘くないもの」と感じる様になっている。
自他の別で麻痺した感覚がそうさせているだけで、全体一つで受け取れば、無限に広がる滋味深いうまみが溢れる程振る舞われていることが分かる。
熟した機を丸ごと味わうには、過去の不覚体験の記憶や、世間で言っている「おいしそう」を張り合わせて作った、選り好みを手放すこと。
好みに合う物しか受け取らないと頑張ると、飢えはつのるばかりとなる。
既に機能しなくなって来ている、かつての「うまいこと」の幻影を追って、飢えたエゴの貪りは激しさを増し結構喧しくもなるだろう。
だが、それに構っていても仕方がない。
世間の騒音はそのままに、皆様それぞれ天意からの愛での実践行動に集中されることをお願い申し上げる。
起きることが甘くても酸っぱくても、時にほろ苦くとも、まずはそれがそれであることを認め、味わい、祝う。
すると世界はどんどんと、実り豊かに栄えて行く。
限りなく、熟す歓び。
(2020/5/11)