《ありてある楽しみ》
先月の終わり、東京では割と珍しい量の雪が降った。
ちらほらと降っていつの間にやら消える程度ならそれまでにもあったが、この時は咲いた桜が綿帽子を被った様になっていた。
そんなに沢山落っこちて来たのに翌日になると、殆ど消えている。
あれは夢じゃないかとなりながら自転車に乗っていたら、夢じゃないと分かるものを発見。
民家の前に、雪だるまが立っていた。
同じ場所で、バドミントンをしていたそこんちの家族を見たことがある。
彼らの作品だろうかと、運転の速度を落として眺めてみた。
降った雪を出来る限り集めにかかったらしい力作で、その辺の芝生が枯れた様なのも一緒くたに巻き込まれている。
雪の少ない地域ならではの剛毛だるまから、これを作った人々の「ありあまる力」を感じた。
休校やリモートワークによる運動不足を、密室に密集せずに解消出来たのなら、これも天の恵みじゃないだろうか。
混乱や不安に不覚社会が丸ごと包まれている中で、人は鬱々となることも出来る。
だるまを作ることも出来る。
この時期に何をするかによって、意識の進化に大きく差が出て来る。
「どうせ消えちまう雪でだるまなんか作って、それが何になるって言うのさ」
余裕がない人々は、そんな風に虚しく感じたりするかも知れない。
この所、不覚社会では出来るだけ「確かなもの」を求める思いが日に日に強くなっているのを感じる。
「確かな安心」
「確かな未来」
「確かな根拠」
人の作ったもので「絶対に確か」と言えるものはない。
まして、今の不安定な情勢では猶更それは見い出せないだろう。
天のものなる雪は、只降り、集まれば積もり、どんな形にも変わり、やがて溶けて消える。
そこに何の心配も不安も混乱もない。
密が禁じられて様々な人間同士のしがらみから一旦距離を置くことが出来たなら、それも一つのチャンス。
機を見て「開放的な場所」で「人ではないもの」との触れ合いを楽しみ、味わってみて頂くこともお勧めする。
陽の光も、雨も、雪も、山も川も海も、何かを恐れながら存在してはいない。
天候や地域に関係なく触れ合い易いのは、土や水、植物あたりだろうか。
石も味わい深い。
石けりや水きりをして触れたり、小さなのを崩れないギリギリまで積んでみたり、柔らかいものだと室内でも篆刻などを楽しめる。
樹や花等に触れてみても感じるが、人以外の万物は、本当に「平常運転」である。
そして「在る」ことそのものを、とても楽しんでいる。
在ること、楽しめている?
(2020/4/6)