《あっちってどっち?》
お彼岸の語源と言われているパーラミターは、サンスクリット語で「完成する」や「成就する」を意味し、そこから“悟りの境地”を表している。
パーラミターを音写したのが般若心経中のフレーズ「般若波羅蜜多」でお馴染みの、「波羅蜜多(はらみった/はらみた)」。
インドや中国で悟りの境地だったものを、日本では「あの世」としたのが面白い。
確かにエゴの死を体験する覚醒は、ここに居ながら、ある意味既に死んでいる状態。エゴ的には。
人型生命体的には死んでいるどころか、ここで初めて真の生が始まり、それまでが「まだ生まれていなかった」と分かる。
「不覚のままで現世利益をたっぷり頂戴」と言うオーダーは、
「私の入っている子宮だけ、自動運転で低燃費かつ最新式の格好良いものにして下さい」
と、言っている様なものだ。
とても、奇妙に映る。
復活再生の前には分割意識と御神体まとめて丸ごとが十字架にかかる様な経験をする。
そこで初めてエゴが死ぬ。
ところが日本で「彼岸」と呼ぶ、川を隔てた向こう岸にある場所へは、単純に魂が身体を離れたら行けると何となく思われている。
「死ねば皆、仏」の言い方にもそのことは表れている。
十字架なしでも、エゴと手を繋いだままでも、死ねば皆、仏。
この認識が、八百万に神を観る程のグッドセンスを発揮出来るこの国の人々が、それでいててんで目覚めから遠くなっていることの理由の一つである。
放っといても、行ける時は、行けるでしょ。
選挙や納税を通知する様に、本当に必要ならお知らせ来るでしょ、それに結局は逝ったら行けるんでしょと、思っていればそれは、
仲良しの誰それが目を覚ましたらそのタイミングで、
家族の問題が残らず解決したらそのタイミングで、
世の中で流行り出したらそのタイミングで、
上げようかなとなる位、腰が重くなる。
何しろ、いつだっていいからだ。
だって、いつだって全て今でしかないから。
上手いこと言う!
そして何しろ自他はないのだから、
まず自分から目を覚まそうと決めなくてもいい、となる。
こう言った、どうでもいい頓智ばかりきかせるのが不覚者である。
「ジタバタしなくたってあの世に行けば全て解決」みたいな認識でいれば、そりゃ「彼岸」としてゴールを遠くに置きたくもなるだろう。
墓参りの度に「まだ生きてるもんね、セーーーーフ!」と、なるべく彼岸を遠ざけようとしたりもするだろう。
「こっち」側に主要人物が揃っていれば認識は概ね「セーーーーフ!」に傾くが、「あっち」側に、お気に入りのキャラクターが「亡き〇〇」として増えれば増える程、あっちへの好感度は増す。
じきに行くから待っててねとか言い出す。
「幽霊なんていない!」と豪語し鼻で笑っていた人物が、自分の愛犬は虹の橋を渡るし、命日には帰って来るやら言って憚らないのを眺めていて、「不覚者のあの世観、ほんと雑だなぁ」と感じたりしている。
もう、どうしたいのさと呆れながら、結局どうもしたくないのだと言うことも知っている。
どうもしたくはないが、どうにかして欲しくはある。
その「どう」が何かすら、定まらないのに。
“分からないものねだり”である。
お目にかかる中には、真の墓参りと感じるお墓参りをなさった方も居る。
先の代を生きた親族に感謝を捧げ、バトンを受けた宿題を、自ら解く者となる宣言をするお参りである。
これは、その親族達にとっても本当に嬉しい供養だ。
全体一つの状態で観察を行いながら感じているのが、「あらゆるものの外」から、かつ「あらゆるものの内」から観ていると言うこと。
不思議に思われるかも知れないが、これは両方同時にである。
外からも、内からも、観ている。
物理次元では便宜上一つの端末として在るが、見えない領域では方向がないので、あの世を示すあっちってどっちなのかは知らない。
だが、宿題を解くぞの宣言を受け取ったら、虚空蔵に収まっている「亡き親族」のデータ達は、その場から揃ってスタンディングオベーションだろうとは分かる。
宣言はどこでしても、空間を通して伝わり、そして空間から祝福が返って来る。
墓地や霊園、寺等のエリアから遠い場所に居ても構わずに、宣言する気になったら今ここでなさること。
カフェ、車内、デパート、公園、球場等、どこでも。
球場で宣言した途端、快音が響くかも知れない。
祝福は、そうした表し方でも届くのである。
宣る愛、祝う愛。
(2019/9/24)