《魔球とファール》
「何でもやろうと思っているが、未だ上からの振りがない」
「この代わり映えしない日常で、ずっと待たされている」
進化の道に在りながら、そうお感じの方も中には居られることが時折伝わって来る。
大きな変化がなくても、満たされている感覚そのものはあるという場合は、より高次の周波数に慣れて行っている段階なので、その微細な変化を感じ取ることに集中していればふさわしい時に必要な動きが起こる。
退屈で飽き飽きした感覚しかなければ、待たされている感から不満がつのるばかり。
だが、別に待たされてはない。
意識が「何でもやるぞ!」と奮起しても、その傍らでエゴを機能させているうちは
「でもあれは嫌で
これは困って
それは有り得なくて…」
と、無自覚でも、来て欲しい球種とコースまで指定し、狙った部分以外は見えないままとなる。
その為、お目当ての球以外が勝手に「最初から最後までずっと消えてる魔球」と化しているだけである。
まさに魔球。
だからエゴに対する意識的な観察が大切なのだ。
エゴというへっぽこコーチと自らとを分けておく必要があるから。
何故、決まった球を狙わせるのか。
それ以外の球を打つことが、エゴの存続を揺るがすからである。
だからエゴにとって不都合のない球を狙わせる。
へっぽこコーチは押しかけ審判でもある。
例えば、
「世間の賞賛を集め、
身内の敬愛を集め、
みんなに感謝され、
心地良い反響を浴び、
でも
持ち上げられ過ぎても飽きるので、
スパイス程度に戦いを挑む敵も現れて、
ますます、みんなからの反響が美味しくなって、
でも
目立ち過ぎて反感買うのも怖いので、
さり気なく
波風立てずに過ごせる、
そんな現実、来いっ!」
以上の希望全てを満たす球は存在しないのは明白である。
これは不覚からちょいと採取したほんの一例で、一例ですらこれだけ混沌としている。
へっぽこコーチの矛盾に満ちた選球例はそれこそ山のようにある。
エゴは、はなからまともに打たせる気などないのだ。
眼に鱗がビッシリなままで、何かを何処かに打ち返そうとすると、当たってもファールになる。
上を通しての全母からの振りは、芯で捉えて初めて打ち返せるわけで、ブレたままで当てれば球(結果)は変な飛び方になる。
何回バットを振ってもファールでは塁に出ないし、アウトにもならない。
芯を捉える(完全燃焼する)ことをすっかり忘れて、「ああ、またバットを振るのか〜」とうんざりしたり、もう疲れましたと見逃し三振で別の御神体に打席を明け渡したりの繰り返しを人類はずっとしてきた。
代わりたい者も客席に、わんさか居る。
芯を捉える感覚を磨かずに、好みの球を待ちわびるのは神の仕事ではない。
「何でもする」の何でもが、本当の「何でも」となるには、予期を手放すこと。
それと同時に、今まで作り上げてきた個人的な美学や慣れ親しんできた常識や経験則からも距離を置くこと。
これで、受け取れる質も量も格段に増す。
先祖代々カーブは打ったことがない
そんなデータを残してあっては、いざ来た時にためらいが出ても不思議はないのだ。
そしてその僅かなためらいが、芯を外す。
ファールの記録更新は疲れる。
風変わりな筋トレということなら止めはしないが、芯を捉える歓びには比べぶべくもないことを申し上げておく。
芯に当たると気持ちがいい。
(2017/1/26)