《飢えと乾き》
覚醒には資質がある。
資質というと特別な才能のようで少々誤解を招く言い方かも知れない。
だが、周囲がどれだけ時をかけても、力を注いでも、本人の持つ“ある資質”がなければどうすることも出来ないのは事実だ。
宮司はそれを
魂の乾き
と呼んでいる。
キリストが十字架にかけられながら「私は乾いている」と言ったのは伊達や酔狂ではなく、深い意味がある。
金が欲しい。
美しくなりたい。
名誉が欲しい。
他より恵まれた人生が欲しい。
それらは皆、飢えだ。
飢えと乾きは全く違う。
乾きとは、世間的に見てどれだけ優遇された状況にあったとしても、奥底で疼く違和感。
何かをやり残している、忘れているという感覚。
飢えは、表面上満たされれば、一度は引っ込む。
より多くの金。
より条件の良い新しいパートナー。
より上の地位。
そうしたものを得ることで、痺れるような快感を伴って脳内物質が噴出すると、表層のお喋りは暫し大人しくなる。
次の飢えがやってくるまで。
これに対して乾きは、優位に立つ情報や表層の豊かさなど得るものを「飲めば飲む程」その渇望感を増す。
上に行けば行く程、得れば得る程、内側の乾きは増大し、小休止がない。
何があろうと
満たされない。
その感覚と対峙し、それを抱えて自らの内で熟成させ、変容の力とする者が覚者として新生する。
正直、万人に覚醒の夢を見せるより、十人の本物の覚者が産まれる手伝いをする方が全体に則してよほど有意義だと感じている。
魂の乾きはどんな飢えも取って代わることが出来ない、変容の核となる宝だ。
“それがある”と分かっておられる方は、どうぞ自らの内なる乾きの感覚を大切にして頂きたい。
大切にするとは、大事に取っておくことではなく、真剣に向き合うということ。
生ける水たる存在が何故、乾くのか。
それは乾きが、全一という不滅の水に繋がる道だからである。
我々は個を体験し、乾きを経て、全てに還り着くように出来ている。
飢えに進化はない。
「自分」だと信じた端末が持つ飢えの形状を、目を瞑ってもなぞれる程観察して、飢えを飼いならすことができたとしても、それは乾きとは全く関係がない。
飢えを飼いならす猛獣使いとしてのスキルを世人に示し、そのノウハウを一部提供して暮らして来たのが高僧や霊的指導者と呼ばれる端末だが、彼らは尊者であって覚者ではない。
尊者とは「尊い尊い」と支持者にあがめられ、又、当人も「他より尊い」とどこかしら思っている存在である。
全一の地平では他より尊い者など存在しないが、それを言うのは、ちっちゃい子達に
「ライダーとかプリキュアは本当は居ないよ」というようなもので、
エーンと
泣くだけなので
そっとしておこう。
大人は大人だけで、深めて行くのだ。
まずは、そこから。
宮司のように、既に日々の興味が「どう世界が目覚めてゆくのか」にしかない端末にとっても、各端末の魂の乾きは大切な目印となる。
力を注ぐかどうかは、
この乾きが相手にあるか
という点で
決まっているからだ。
宮司の意志で決めるのでなく、そのように決まって行く。
そんな訳で、エゴまみれなままで表層の殻が喋って歌っているような端末だと、路傍の石ならぬ路傍の卵に見えている。
そうした覚者ならぬ殻者には、このところ殆ど興味を引かれない。
殻にヒビが入っているのが分かるようなセンサーがあれば便利だが、今の時点では分からない。
まだそこまで感覚が開かれていないからなのだろうか。
分かるようになるまで、磨いてみることにする。
起きてからも、日々精進。
~ご連絡~
母神祭にご参加の皆様におかれましては特に、この“乾き”に意識を向けて当日までお過ごしくださいますよう、お願い申し上げます。
只今、全母からの還付ラッシュで連日、「マジかよ!」なことが明らかとなっております。
伝える意志と、受け取る意志。双方の間に置かれて初めて、宮司というこの公共物は十全に機能します。
お陰さまで、人類進化の最前線に立たせて頂いておりますこと、謹んで感謝申し上げます。
(2016/8/4)