《願ったり叶ったり》
本日は目が覚めて変わったことの一つについて。
「思考に掴まらなくなる」とか、「満足と納得が当たり前になる」「何でも発見に繫がる」など、日々の暮らしで実感できる変化は、早々とそれを知ることが出来るが、体験する機会が時々しかないことの変化については、後から気がついたりする。
ある神社に出かけた時の話。
参拝の列に加わっていると、すぐ後ろに並んでいる二人がこれからするお願いごとについて、あれやこれやと話しているのが聞こえて来た。
「お願いごとの内容」
「その内容が神様的にオッケーかどうか」
「マジでそれが一番叶えて欲しいことかどうか」
「ちゃんと叶えてもらう為のポイント」
実に色々なことを話している。
その盛り上がりに少々驚き、気がついた。
もうかれこれ数年、目覚めに向かう途中からなので恐らく5年程は経っているだろうが、宮司は神社の神に
個の願いごとを
していない。
というか、個の願いが特にない。
地位も縁も名誉も成果も財も、必要があれば巡って来るもので、来たら引き受けるが「これとこれをこの様に頂戴」と前もって指定する意志がない。
千客万来、学業成就、立身出世、家内安全、商売繁盛、出前迅速、落書無用。
世に願いは色々あるけれど、どうにも既にピンと来るのがなくなっている。
個として絶対手に入れたいものも状況も特にない。
他の願いって言うとメジャーなのは身体健康、無病息災?
健康は我が邪魔さえしなければ、いつでも全ての端末とともにある。
健やかで康らかなのが自然なのだ。病はそのことを真に分かるまでのチャレンジと言える。
後、有名どころだったら、恋愛成就とか良縁祈願?
縁結びったって、「水と水をつまんで結び合わせるってのも変な話しだしなぁ…」と首を傾げる位しか出来ない。
大体どことどことをつまむのかも、もう分からないし。
こうして、色んな“皆が願っていること”に、ひとつひとつ照準を合わせてみたが、宮司である“これ”特有の願いはもう見つからなかった。
「厄避け」とかも人気だろうか。
避けちゃうと追跡機能付きのドローンみたいにどこまでも追って行きますが。
「好きなもん集めて」
「嫌なもんは払って」
「気に入った世界を構築しようぜ!」という動きに留まると、何を願おうが何が叶おうが、進化はしない。
お願いごとそのものは良くも悪くもない。
ちょいと願っといて、「それがどうなったか」観察してみるのも面白いものである。
ちゃんと、「願った内容」「どのような姿勢で願ったか」「それは叶ったか」「どんな風に叶って行ったか」など、中立に観察できれば、その願いを通じて神社の神という見えない存在とのコンタクトが出来る。
どっちかって言うとその「神との対話」の方が真の自己にとっては面白いだろう。
不覚から覚への移行期には“これ”も随分、その対話で楽しませてもらった。
ところで、現在の宮司が参拝して一体何を神社の神に言っているかといえば、
基本はこっちの意志を伝えている。
ますます全体の為に働きますので、よろしくどうぞと。
呼び出された時には大概それだし、あまりにも不覚社会の歩みに進展が観られないと感じている時などは
「今、全体に必要なことがあれば教えて下さい」
と丁寧な感じの言い方や、
「ちょっ何なんすか、この現状。どういうことだ?え!?」
と半ばキレ気味の言い方など様々だが、要は
「どうなのよ、最近?」
という尋ねをしている。
そうすると進捗状況が、神籤の内容に織り込まれて返って来る。
他の部署に内線かけたらメールで返事来た、みたいな感じである。
それに「ラジャー」と内心で答えて帰る。
そんな感じで確認をする機会となっている。
「やく」が「みつる」って、すごい名前。
(2017/3/20)