《隠れ蓑?》

 

新世界では万物の本質が明らかとされ、自然に受け入れられる。
も勿論、例外ではない。

本来、とは「止み」であり、全ての思考が停止した状態
則ち虚空のことを指す。

だが不覚社会では「闇社会」「闇サイト」等、危ない気まずいと判断したものを闇に押し付けることがある。


裏も同じ。
お天道様の下を歩けない者は「裏社会」で生きたり、相応しくないものを望む者は「裏口入学」をしたり。

これは酔い正しさ酔いその逆にも酔った分断の産物で、闇にしても裏にしても、本質を全く分かっていない使い方である。

 

闇も裏も、

物置ではない。

そうした分離おままごとの持ち時間が既に終了したので、万物の本質はすくすくと立ち上がり、勝手に繁栄している。

不覚の目に映っていないだけで、もう始まっている。

闇の本質が立ち上がると言うことは、もう闇に甘えていられないと言うことだ。

“やみにかくれて 生きる”

 
“ひとにすがたを 見せられぬ
けもののような このからだ”

彼達それなり必死キュートでもあるのだが、変容については全く分かっていない。

大切なのはどんなデザインであっても、そのままの体を愛し認めること。
意のままに活動してくれる伴侶を獣扱いし、闇に甘えて、闇に包まって、都合良く自意識を満足させる善行を幾ら積んだ所で、

“早く人間になりたい!”

そんな願いが叶う訳はない。


獣に対しても失礼な話。

獣は獣で彼らの生を全うしている。

 

ライオンの横でハイエナが「俺、カッコ悪いかな?」としょげたりしない。

 

同種間での優位劣位の感覚は獣も持っている。
それを使って群れを作り調えるのに必要だからである。


だが種と種を比べるのは、断罪するのは、舞い上がって鼻息荒くするのは、いつも人間だけだ。

「早く人間になりたい!」「早く覚醒したい!」に置き換えても、同じ。

「やみにかくれて」の隠れている闇は真の闇ではなく、不覚の無明である。


 不覚社会が疎んじるもの全般と、見たくない触れたくない恐怖と、反対に湧き上がる興味がそこに押し込まれ、ヘドロ状態になっている。

覚者となった端末が一つ又一つ、不覚の喧噪を抜けて行くと、残った者でエゴの餌を作らなければならなくなり、無明のヘドロも濃くなって来る。

気怠さが増し、焦燥感が増し、苛々が増し、暴発も増す。
座り込んだ分だけ、立ち上がるのには力が要る。

目を覚ました人がいっぱい出てくれば、世界はどんどんすっきり片付いて、エゴの抵抗も無くなって、僕も私も


いつのまにか、目覚めてる?


 ご承知の通り、そんな風には出来ていない。
だから、のるかそるかなのだ。

真に目を覚ます時、誰もが一人きり。
そしてその時初めて「一人になど、実は只の一度もなれていなかった」ことが分かる。


そして「全母=虚空と言うわたしがあるのみ。ずっと、わたししかいなかった。ずっと唯一であった」ことも分かる。

こうなると、色んなことが軽くなる。
中心に意識が納まると、外のことは軽く明るく移り変わる


重たい気配が流れて来ても、どこかから漂って来た夕食、焼き魚やカレーの匂いの様に放っとけば、すーっと消えて行く。
 


 新生がどんどん細かく速くなり、保たなければならないものが無いので、隠れ蓑とは無縁の暮らしとなる。

今となっては知る由もないが、これ程きれいさっぱり無縁となると、残ったものはそりゃきついだろうと感じる。

隠れ蓑がどんどん重たくなる時代になっているのだ。
 

脱ぐなら、今。

(2017/8/3)