《鏡よ鏡》

 

「鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番美しいのは誰?」

 

我以外の全ての者よ。我より美しく無く、在れ。

 

こんな思いが下に敷かれてるなら、どこに出しても恥ずかしくない立派な呪いである。

 

まぁ呪い自体が立派と言えるか、そして恥ずかしくないかどうかはさておいて、人型生命体が縛られている数多くの価値観の束縛の中で、最も図々しく居座っているものの一つがこの「美醜の束縛」

不覚に在って影響を受けない者は居ないのではないだろうか。
たとえ全盲であっても、「見た目の評価」を耳にする機会はある。

 

権威は地位や勲章ではかれる。

財産は物や金や数ではかれる。

 

では、はどうやって?

 

明確な質量測定結果は出ないのに、“それ”は確かな存在感を持って機能している。

王侯貴族であっても、自らの姿に寄せて「美の基準を書き換える」ことは出来ない。

 

その証拠に、不美人なお嬢様や姫や女帝、不細工な坊々(ぼんぼん)や王子や皇帝が居たところで、世間はそれが奇妙なことだという印象を持たない

 

配偶者や妾にしたり、臣下にしたり、美を持つ者を金や権威で意のままに従わせることは出来ても、美そのものを当人が取り入れることは出来ないのだ。
整形美形が天然美形を追い抜いたという話も今日まで聞かないし。

 

金や努力で何とかできない代物だからこそ、不覚社会は美に「神からの特別扱い」を感じて畏怖し、あやかろうと群がる。

 

富や賞賛を注ぎ込んで崇拝するのも、地団駄踏んで悔しがり隙あらば(おとし)めようとするのも結局は同じ群がりで、美にはいつも向けられる視線が絶えない。

 

人はそれをモテと呼ぶ。

 

ところで、不美人だの不細工だの申し上げたが、ここに挙げた美や細工はエゴが(あつら)えた「三次元ルール」に過ぎず、表層美の基準そのものは

 

捏造(ねつぞう)である。

「こんなにありありと感じるものが自然じゃないなんて」


「お金じゃ買えないものだったら、それこそが真実なのでは?」


「誰にも操作できないものならまさに神の御技。真実でもおかしくない」

 

こんなご意見が山程不覚社会に渦巻こうが、痛くも痒くもなくごく当たり前に申し上げられる。

 

捏造である。

 

何でその捏造が必要だったかと言えば「金や努力で何とか出来ること」と、「金でも努力でも何とも出来ないこと」両方を人々が求める様に仕向ければ、必ず誰かが何処かで「持たざる者」になり、結果として欲求不満状態を維持することができるから。

 

飽くなき欲求解消という堂々巡りの為にエゴが、本来の変容プロセスをねじ曲げて設置した巧妙な仕掛けなのだ。

 

この仕掛けは実に巧みで、美醜の束縛美醜のみに注目していては絶対に解けない

 

一見無関係に思える他の束縛達と、美醜の束縛は連携しているからだ。
その全体を観ることで初めて「よいしょっと」と足抜け出きるのである。

 

 

美醜について取り上げたのは、性的魅力と強く関連づけられており、性的魅力について引っかかりがあると、自身の御神体を祝福出来ないし、ひいては内側の男性性と女性性も祝えない為。

 

不覚社会が蔓延(はびこ)らせた基準と取っ組み合っても、それを外から壊すことは出来ないし、組み合えば(から)めとられるばかり。


システムは放っといて、あくまで「ご自身が足抜けする」ことが求められる。

 

コンプレックスによるジレンマエゴのお家芸とも言えるし、人類の歴史に根付いたカビの様なもので相当根が深いが、全一の天意があれば必ず解くことが出来る。

 

何より、馬鹿らしくならないだろうか。

 

欲求不満の維持の為に作られた後付けの価値観で、

 

あなた本来の素晴らしさ真の美が封じ込められ、

 

伴侶である御神体に愛を送ることが出来なくなり、

 

意識御神体の間に溝が出来て、

 

それが勿論、全母の歓びにならないことに。

 

表層の美醜で低く評価して伴侶を軽んじることは、または他より高く評価して歪んだ優越に浸ることは、

 

新世界を前にして、

目に蓋をすることだ。

 

 調和がとれるはずがない。

 

本日記事でご提案申し上げるチャレンジは以下の通り。

 

夜寝る前のひと時。

寝所で家族と一緒に過ごすと言う方はそれ以外で、一人になれるひと時。

 

どのお部屋でも、そこの鏡の前に立つか座るかして御神体と向かい合い、映る姿を丁寧に、愛をもって見つめて頂きたい。

 

まるで初めての出会いの様に。


まるで「決まった美しいかたち」などこの世に存在しないかの様に。

 

実際、決まった美しいかたちなど本来存在していないが、とにかく「過去に増やした目の鱗」は今ここに一切無いものとして、ただ、とともに、皆様それぞれの御神体のオリジナルな美しさを祝って頂きたい。

 

愛するのが難しいと言う場合は、「自ら」と感じる分割意識がではなく、全母に成り代わって「全母の視点で」御神体と向き合われると、自然と天意からの愛が、御神体に届く。

 

「言われたから…」などと、照れ混じりのお義理ではなく、「自身の意志で」集中してなさること

 

つめながら、れてみる。

鏡に映った姿でも、直接でもどちらでも結構。

そこに湧き上がるのは、今まで共に歩んで来た感謝かも知れないし、まるで今の今見つけたかのような新しい愛おしさかも知れない。

 

近しい者程、対話をしない。

 

だが、世の夫婦と同じく、向かい合わなければ分からないことが、分神という夫婦にもあるのだ。

そして湧き上がる想いをそのまま、鏡の前の伴侶に贈って頂きたい。

 

 

覚醒の一瞥なら、御神体とは同棲程度で可能かも分からないが、

 

結魂なくして

完全覚醒なし。

 

添い遂げる気持ちを新たに、鏡の前の伴侶に愛をお誓いになられること

 

それだけで、見えない領域のお膳立ては一気に整い、進化が発動する。

亭主宣誓!

(2017/2/13)