《郷土愛という縛り》
上に教わって宮司が“美しき簒奪者”と呼んでいる美徳概念達がある。
現時点での美しき簒奪者ランキングに
夢とロマン
恋心
信仰
等と並んで上位に入って来るのが
郷土愛である。
郷土愛と書くと麗しく、また当然正しいものとして世人に認知される。
特にすばらしいと思わなくても、まあ当り前なんじゃないの、という認識を持っておられることが、どの地域に住む方でも多いのではないだろうか。
この当たり前、果たして当たり前だろうか?
首都だろうが過疎の村だろうが、「そこ」だけ、と意識した時点でそれは部分。
全一から離れる。
個の端末として或る場所に設置されたとしても意識の上では、「わたし」に近い所から順に大切という固定観念を解かなければ、全一など有り得ない。
目覚めた後しばらく、何故か「意識したこともない場所」に関わる用事が舞い込むことが続いた。
俗世的には友人も居なけりゃ知人も居ない、素敵だなと興味がわいたことすらない、かといって嫌ったこともない、
全くノーマークな土地
この地と神に尽くす機会があった。
お会いした方には申し上げたこともあったが、覚と言ってもしばらくは寝起きのウトウトしてた状態だった。
その為、この機会を振られた当初も、
「何でまた」
とか
「地元の奴が
やったらいいだろう」
とか
「知るかそんなもん」
とか
まあ、ポンポン出るわ出るわ。
ここまでは言いませんでしたが。
その悪態が尽きた時ふと理解した。
だからこそなのだと。
縁もゆかりも思い入れもない土地だからこそ、尽くした時に歪みが取れる。
全体の歪みでも、宮司という端末に残る歪みでも同じこと。
そうして出かけることは実際必ず覚りを深め、意識の自由を広げてくれた。
覚不覚どちらの状態で行っても、有用な試みであると思う。
当宮にご参拝下さるグッドセンスな皆様も、自我を使って機会を作る必要は全くないが、ただ自然にしていてそんな球を放られる、上から機会を与えられることがあれば是非受けきってみられることをお勧めする。
殆どの場所に、土地の偉人に代表されるイメージや、風習などで構成されるお国柄ルールがある。
ただ、そこに長く暮らすと意識に馴染んでしまい分からなくなることが大抵である。
自分の位置する場所に縛られていると感じられる方は、大切なのは土地を離れることより意識を離すこと。
あまりに意識が離れがたい場合に初めて、土地を離れる必要が出て来る。
ただ、離れたって空に溶けるわけじゃなし、どっか別の部分に移動するのみ。
就学や就職転勤エトセトラで地元を離れても、エゴを基盤にそれを行うなら、意識の中には郷土愛と、生活する場所への馴染み、観光地等好いた場所への興味等の詰め合わせが出来るのみで、全一とは言えない。
エゴが関わらないノーマークな場所への尽くしは、不要な縛りを柔らかくして解く為の呼び水になる。
お出かけの機会があった際、郷土愛が色濃い地域へ行けば行く程、盛り上がってワーワーやっている場面にも遭遇されるだろうが、そこも含めて大きな意識でご覧になると、それに見合ったように意識が拡大する。
行脚という言葉がある。
アシに任せて動いてみるから、思いもかけない面白い変化が起きたりもする。
冒頭の美しき簒奪者は、美しき、と書く通りランクインしたものは突き詰めると皆、美学になる。
虚空の天意に則しているものが真の美であり、人間意識に味付けされた美は多かれ少なかれどこか歪む。
美それのみであることに飽き足らず、学の字が付くことに良く表れている。
死亡報告書の死因欄には大抵、『頭部挫傷』とか『心筋梗塞』とか怪我や病気の名が書かれているが、真に書くならば、
死因:美学
が正しい。
美しいと感じないものを手放すのは容易い。
美しいと信じて来たものを手放す時にはためらいが出る。
そして最難関が、手に掴んでいただけの存在とは思いも寄らない、空気のような存在の手放しである。
そことの抱擁も意識が手放さなければ、進化はない。
人は意外と、本当に意外と
全て
の意味を理解していない。
全ては全て。例外はなし。
(2016/7/28)