《適正距離》

 

先月の会の折、お目にかかった方のお一人に「最近の音楽も聴きますか?」と言うお尋ねを受けた。

「あ、成る程」と新鮮な驚きがあり、同時に「あること」をお伝えするのにいいきっかけになるなと感じた。

 

当宮記事で取り上げる題材は、文学音楽芸能に関してなるべく、最近の情報を使わないようにしている、ということである。

 

理由は幾つかある。


一つには、読み手にとって今現在「好んでいる」又は「嫌っている」ものが皿(記事)に乗っていた場合、それだけで箸をつけるのが躊躇(ためら)われることが有り得るからだ。

 

思い入れがあると、真っ直ぐ観ることが困難になる

 

昭和、遅くともミレニアム前後であれば、いい感じに「寝かせた」状態になり、情報に対し「他人感」が出る。

 

右 出典 China.org.cn

 

この他人感が冷静さをもたらす。

 

もう一つは、趣味嗜好の細分化でムーブメントが小粒になり、「大体皆の記憶に残っている」という状態を、特に平成以降は実現しづらくなっている点である。一部の世代でどんなに流行っているように思えても、全体での「あ、知ってる、知ってる」が起きにくくなっている。

 

そして、後の世代に前の情報を遡って検索する意欲はあるが、逆は起きにくい点がある。

 

良く言う「最近のことは分からない」現象である。

分からないことは調べる、または分からないことに(こだわ)らず記事の内容を楽しんで頂けるなら結構だが、「分からない」時点で、意識がシャッターを閉めてしまっては元も子もない

 

したがって直近の事例は殆ど記事に採用しない。

 

ついでに申し上げれば、当宮記事を賑わす様々な情報は、まず上から振られて、宮司はそれについて良く知らない状態から調べてまとめることが多い。

宮司という端末の嗜好に支えられて出来ている凡神宮、では全くない。

 

嗜好で何かを構築するというのは不覚的発想と言える。

 

新世界を観察するにあたって、不覚時代に思い入れのあったものを見続けることも一興ではあるが、そこを手放して只、自然にしていると、不覚当時の“好み”とは一切関係のない事例があっちこっちから降りて来て、意識を驚かせてくれる。これについては未知の味という記事で申し上げたことがある。

 

他へ発信する目的で文章を書く時、中立という「意識の適正距離」が無いと、今後はどんどん苦しくなって来る。


 目が覚めた後は勝手に中立で書き出すが、不覚にある間は常に中立を意識する必要があるように思う。

 

音楽に関して言うなら、不覚時代の宮司は地域やジャンルを問わず美しいと思ったものは熱心に聴き、殊に、フィドル、ハープ、チェンバロ、ピアノ、トランペット等の音色をとても愛していた。

 

音楽は生活を彩る美しい楽しみであり、何か特定の美学を反映したようなものは「塩辛くて」好まなかった。

 

(のち)に、集中のあまり鬼の形相となって、ヘッドホンでYAZAWAの音楽を聴く日が来るとは、まるで思いもしなかったのだ。

だが、真剣に読み解くとはそう言うことだ。


個人の好みなど、さほど意味を持たない。

 

それに、とうに「個人」は超えている。

 

この姿勢があったから、不覚期には想像だにしなかったYAZAWAの美を発見することが出来た。

出典:www.eikichiyazawa.com

 

永ちゃんに限らない、沢山の思いもかけぬ美に遭遇し、美とは何か、という深みを捉える感覚が不覚期とは比べ物にならない程、澄み渡ったことを実感している。

 

ちなみに、記事でたびたび例えに使う野球に関しても、選手経験もファンとしての思い入れもない。

 

だが、何故だかその表現が「やって来る」のだ。

見せたい自己像が存在せず、ただ「最も的確に伝わるように」というオーダーしか無い時、こんな不可思議な情報の現れ方になる。


だが「伝わる」ことはオーダーしているので、何をどう書いても、いつも満足している。

 

我で書かないと全になる。

 

(2016/12/8)