《言えないはずが》
「言えないよ 好きだなんて」
自転車で走っていたら、傍を追い抜いて行った車から流れて来た音楽。
そのあまりに大きな「言えないよ」に、先で遭遇した自転車や歩行者が皆驚いて振り返ったり、横に退いたりしている。
デシベル、とかはちょっと分からないが大体、「裁きの時は来たり」とか「万世一系の」とかを掲げて新宿駅周辺を走る車達が発する位の音量だった。
そうしたもの達であれば「普段この位の音量で言って来る」ことに慣れているせいか、道行く人は振り向きもしない。
たまたま今回は特定の思想や信仰でなく、言えないよだった為、皆が振り返ると言うのも興味深い。
聞いてない様で、結構聞いているのかも知れない。
「いや〜、こんな大きな言えないよ、初めて聴いたなあ」
と、ちょっと感心して見ていたら、車は少し先の信号で止まった。
追いついて並んでみると、やはり結構な音のボリュームである。
「…」
相当、集中を乱して来る。
だが、これが何かを教えてくれている気がする。
首を捻っている横で、信号が青に変わった為に、言えないよカーは走り去った。
言えないよ、と言えば郷ひろみな気がするが車から響いて来たのは倖田來未。そして運転席には男性。
「男?女?そして男?」
言えないよを巡って、もたらされた情報が意識内を点滅する。
大体、言えないよと言ったって、盛大に言ってるし、言えないその相手は兎も角、言えないよが放たれた周囲は聞いている。
そしてビックリしている。
言えないはずが
思いっきり
じゃじゃ漏れ
「言えないよが言えてるよ…?…言えてる!」
と、訳の分からない感想が飛び出した辺りで、「これはエゴがもたらす状態そのものなのだ」と気がついた。
エゴ持ちは個が望むことの現実化を欲しがるが、一方でそれを欲しがっていることをバレたくないと抵抗する。
この歌にも出て来る居心地の良い、既に得ている立場を手放し難いからである。
「好意」には「恋」と「親しみ」がある。
両方を手札とすると、分かり易い。
とてもレアな「恋」札が欲しいが、確認して向こうに「恋」が用意されてなかったら、今持っている「親しみ」札のセットも消えてしまう。
それが惜しいのだ。
好きだ大切だと思えば思う程、手元に有るものを失い難くなる。
そうして葛藤することは鳴り響く言えないよと化して、放っときゃ自然と健やかに伸び栄えるはずの物理次元をビックリさせる。
「王様の耳はロバの耳!」
的に要求を隠して放つと、その歪みに呼応して、放たれた空間自体も歪む。
歪みの果てに、内心で望むはずのことも叶わずに
「君に届きそうな 唇がほら空回り」
となる。
回りくどい火遊びであり、逆に言えば不覚ならではの味わいだ。
ところで皆様とっくにお気づきだろうが、
好の保存≠愛
執着でくっつく「好きなもの」を引き剥がそうとするとそこに「切ない」が発生する。
切なさを感じることは、生を確認する格好の材料だ。
生きている実感が希薄な者程、切なさに固執する。
全体に溶けて感じているのは、
「ちゃんと生きてる」
ではない。
「いのちでしかない」だ。
不覚の有限感覚に照らし合わせれば「しか」とか「ない」は大したことない感じに繫がり、概ね残念ワードだが、全一だとそんなこともない。
全くもっていのちでしかない。
そしてそのことに、大いに感動するのだ。
変換すると、
「わ〜!いのちでしかねぇや、イヤッホウ!」
と、でもなるだろうか。
これを無言の内に感じ、味わっている。
だから今、言わないことはあるが、言えないことは別にない。
真に愛でその関係を観た時、そこに自然と湧き上がるものは、言えないはずがないのである。
惜しまずに言ってみよう。
(2018/10/1)