シリーズ 「 ここから分かること 」
《触覚の変化》
これについては、触覚自体が変化したというより触覚というものへの認識が変化したことが大きい。
目が覚めて、触(ふ)れるということがこれ程不思議に感じられるとは思わなかった。
自とされる“存在”と、他とされる“存在たち”との間に、“触れるという感覚”が起きる時、また何も無い空間とされる存在に“触れないと言う感覚”が起きる時、そのことへの不思議さが湧き上がることがある。
そうした湧き上がりが無い時にも、触れている触れていないと感じる愉快さは、楽しい気配となって時(富記)について回る。
不覚時代の経験になるが、夜中に目が覚めて、自分を含めた全てが粒子と感じられるようになっていて驚いたことがある。
スーラの点描画みたい。
咄嗟に思ったのは
「ああこれ、
仕事行けないな」
であった。
連絡する為に電話を手に持とうにも、どこに力を入れていいのか全くわからない。
「無断欠勤か~」と思いながら天井を見つめていると、点滅していた粒子の瞬きが静まり始めた。
目に映る光景が安定し出した時、呑気にしているようでやっぱり心底では焦ってもいたのだろう。思わず起き上がった。
だが何というか「固まりかけ」だったらしく、
蒟蒻みたいに
ブルンブルン
になったことを覚えている。
「あっ、早すぎた」
と、前後に揺れながら慌てふためいている間に、だんだんしっかりしてきて、やがて普段の感覚に戻った。
これによって、それまで当然と思っていた状態が実は単に「固まっている風に思えているだけ」と理解するようになった。
触れられる設定のものと触れられない設定のものが混在する物理次元の奥に、触れる触れないが一切無い虚空が添っている。
だからこそ、「触れる触れない」は面白いのだ。
そして固かったり柔らかかったり何も無いように感じられたりする、様々な物理次元の色柄と重なって、色も柄も無い虚空のエネルギーは全存在の枠を超えて自由に出入りしている。
宮司と言う“これ”が椅子に座ったままでも、その中のエネルギーは自由に流れて行き、また入って来る。
テーブルを、コーヒーの入ったマグカップを、風に揺れるカーテンを、ありとあらゆるものを通して、世界の中身が訪れる。
つまり、
ここに居ながら
全てに触れる
ことができる。
中のエネルギーにおいては。
それに気がついた時に周囲は、「ただそこにある光景」ではなく「触れられる世界」となった。
どこの何でも世界の一片であり、同時に全てへの開口部だと気づくと、触れられる世界を愛おしむ思いが静かに湧いて来て、それは常にこの意識の内に在り続けている。
触れられるという感覚無くしては、我々が「個別に存在している」というゲームを楽しむことは出来ない。
更に、そもそも虚空としては、触れる触れないは無かったことを思い出さなくては、ゲームを楽しみ尽くすことは出来ない。
全一でありながら部分の視点も持つ、という境地に来て始めてこのゲームの楽しさに気がつき出した。
全ての母であるような不安の無さと、幼子のような新鮮な驚きとで、この世界に触れてみている。
満たされている、天意し愛されて(同時に愛し天意されて)いるという感覚が開かれたことで、『触(さわ)れる、つまり違う存在である』ことはただの喜びになり、違うことを基盤とする世間の喧噪の方がたまに通過する派手な乱気流のようになってしまった。
喧噪のパレードはすぐどこかへ去り、影響も残らないのだが、今夏から台風と一緒に喧騒もその数を増したような印象がある。
空模様を気象図で観るように、日常の喧噪通過の中に世間のお天気を眺めたりしている。
当たり前と言えば当たり前な展開だが、今後ますますきついものはきつく、楽なものは楽にと、分かれてゆく。
目覚めが深まるに連れてごく自然に、触れられないはずのものに触(さわ)れる感覚も開かれて来た。
物に澱んだ気配が纏わりついていれば、ベタつきを触れるのが分かるし、気づきや発見などから大きな内的変化が起きた時には、電気のような何かが体を覆うのを全身の皮膚で感じたりもする。
だが、
触れる触れないが
無いものであった
全一の虚空が、
触れるということを
感じられる
驚きと喜び
これには、どんな触覚の変化も比べようもない。
ただただ、このシンプルな喜びに満足している。
言うことなし。
(2016/9/19)