どうにも削れませんで、先週に続き長めとなります。

 

相済みませんが区切られる等して、皆様それぞれにいい塩梅でご覧下さい。

 

では記事へ。

 

《覚悟の(あたい)

 

何の為の覚悟か。そもそも何を以て覚悟とするのか。

どれだけ「決めました!」と宣言すれば、虚空や上にそれを覚悟と認めてもらえるのか。

覚悟覚悟って言うけど一体、覚悟ってどういうもの何点取れば合格なの?」と、目覚めや悟りを意志する者の中では、進む道の不確かさも手伝って、苛々がつのったりする。

「大体、覚悟決めてどんな良いことが起きるのか、示してもらえなきゃ身銭(いのちエネルギー)は切れませんね!」

 

 

 

 

と言う、“現実的”で“しっかりとした”人々は、不覚社会の精神世界嗜好者の中にも多い。
俗にいう”現金”なタイプである。

覚悟とはどんなものか。
覚悟が決まった者にはどのような後押しが起こるのか。
そしてどんなことを成し得るのか。

本日はその一例をご紹介。

ミレニアム懸賞問題。

この言葉をお聞きになったことのある方は居られるだろうか。
2000年になると色々困ったことが起きるよ的なアレでなく、数学の世界のお話。

 


世界的な研究機関であるクレイ数学研究所が2000年5月に、それまで数学界と数学者達を長年にわたり悩ませて来た世紀の難問7つに、それぞれ100万ドルの懸賞金をかけた。


その内の1つ「ポアンカレ予想の証明」が2002年、一人の数学者によって公開された。

ポアンカレ予想について詳しく書くと、普段の記事の10倍量でも足りないのだが、ごく簡単に申し上げると

地球のかたちを外から見ずに予想する方法を展開させ、

今、外から見ることの出来ない宇宙のかたちを予想すると言う、


宇宙のかたちの解明に繫がる難問である。

証明が本当に出来ているかの検証に数年がかけられ、その正しさが認められた後、数学界はこのジャンルのノーベル賞とも言われているフィールズ賞と、例の懸賞金100万ドルを進呈しようとしたが、本人に断られた。

ざっと1億円程をうっちゃりかますとは、他に見ない。
どこかのノーベル文学賞みたいに、焦らしてごねてイタダキ展開ではなく、本当に受け取らなかった。
メダルも賞金も。


証明者の名はグリゴリー・ペレルマン

サンクトペテルブルクで電気技術者の父と数学教師の母の元に生まれた彼は、幼い頃から天才少年として周囲に期待され、国際数学オリンピックで優勝する等で名をあげた後、ソ連の崩壊を機に渡米。

ニューヨークで研究員としての生活をスタートさせる。

専門は微分幾何学
ちなみにポアンカレ予想を証明するだろうと数学界で見なされていたのは、微分幾何学を“古株”扱いして、追い落とすように主流となった位相(いそう)幾何学とその学者達だった。

専門分野で業績をあげたペレルマンは、地位も資金も用意され将来を嘱望されながら、理由を明かさないまま3年程で帰国。

以降、地元ロシアの数学研究所で、薄給だが干渉されずに研究に集中できるポストを得て、数年間ひたすら“謎解きと、解けた後の検証”に没頭する。


「誰も解いたことがない難問を、いつか解いてみたい」

彼が少年の頃に夢見て発した問いが、ポアンカレ予想と言う的をみつけ、そこに懸けた全力大きな解になって戻って来た。

ペレルマンが子供の頃にまず興味を持ったのは物理学であり、数学の道はむしろ母や教師など周囲の求めに応じて入ったそうである。
彼は高校では、数学に取り組む傍らで物理学にも打ち込んだ。

「振られた球を打ち返す」引き受ける力と、「湧いた興味も大切にする」探究心が、結果として彼の学問を大きくし、培われた多角的な視点が謎を解く鍵となる。

ペレルマンは、魅かれていた物理学の流れを汲む熱力学と、数学者としての専門分野である微分幾何学、加えて解析学も活用して、多数の位相幾何学の研究者を含めた並みいる数学者達の前で、世紀の難問を解明してみせたのだ。


これだけ聞くと

 

「凄い人だったから出来た」とか、


「努力家だったから出来た」とか、

 

「厳格だったから出来た」とか、

 

「無欲だったから出来た」とか、

 

 

そんなことで片付けてしまいそうである。

数学にお詳しい方であれば「彼一人の業績ではない。そこに至るまで膨大な数の学者が挑み、苦しみ、悩み、答えに接近した成果があってこそ解明に繫がったのだ」と思われるかも知れない。

それもそうである。

だが、
「何故、彼に解けたのか」

 

言い換えれば
「何故、彼に答えが訪れたのか」

 

 

これには当宮で一つの解が出ている。

それは覚悟が

あったから。

ペレルマンと同郷の数学者であるグロモフが、ポアンカレ予想を解く以前の彼にあることを言った。

 対するペレルマンの言葉が、それを物語っている。

 

グロモフはその時の会話をこう振り返っている。

「いつだったか私が、大きな難問に挑むのは魅力的だが大きければ大きいほど失敗したときのダメージは計り知れないと言ったのです。

するとペレリマンは真面目な顔でこう答えました。



『私には、何も起きない場合の覚悟がある』 

 

と」

資料ではペレリマンとなっているので原文ママとした。

この台詞を目にした時、感情に由来しない奥底からの震えと共に、「これこそ覚悟だ!」と、こみ上げるものがあった。

料理屋のカウンターで待っている最中に読んでいたので、目の前で煮魚を仕上げている大将が困惑するのではと思い、とりあえず流行りの花粉症のフリをしながら目尻に溜まった涙を紙ナフキンで拭った。

 

かゆくない鼻をつまむ。

人が居なかったら昼食に涙を落としていただろう。

 

不覚社会では殆ど誰もが当たり前のように、


「どのくらい確実に報われるか」


「どのくらい大きく報われるか」

 

「どのくらい早く報われるか」

結果と同時に、そうなるに違いないと思える保証を求める。

そして「望んだ風には得られないかも知れない」ことは見ない振りをして、それでいて無視したはずの可能性を恐れて背筋を寒くする。

 


ポアンカレ予想の前に倒れた他の数学者達と、ペレルマンとの差は、一点において明白である。

望みと不安の間を揺れ動き、行ったり来たりしていたか。

あらゆる結果パターンを「利なし」の0も含めて、完全に受け入れていたか。

不覚側からすれば「皮肉なことに」


覚から観れば「当然に」

何も起きない時の覚悟がある者にだけ、真の繁栄が押し寄せる。

 

 

メダルや賞金を受け取る受け取らないは正直大して重要ではない。

 

欲しいものは何なりと受け取ればいいし、そうでないものは何であれそうしなくていい。

それだけの話だ。

受賞辞退の理由については様々な憶測が飛んだ。


直接本人を説得しようとロシアまで会いに行った学者の話では、“あること”が起きたのをきっかけとしてペレルマンは数学界に嫌気がさし、それが辞退理由の一つとなったと言う。

確かにそれもあったろうが、ペレルマンは1億程をうっちゃって、もっと高いものを求めたように感じている。

「真の天才がポアンカレ予想を超える謎を解く、

 

もしくはポアンカレが彼にした様に彼が次の者に渡す、

 

大いなる謎を発見するのに必要なだけの集中を、

 

可能にする静かな生活」

キノコ採りが趣味だそうです。


これは1億では買えない気がするのだが、どうだろうか?
1億ではと言うか、幾ら出しても“買う”ことは出来ないだろう。

だが、失うことは出来る。


例えば“1億とメダル”に付随する不覚社会との繫がりによって。

 


そこも良く分かって、只、欲しいもの望むまま手にしただけ。

受け取らなかったせいで却って悪目立ちしてマスコミに追っかけ回された時期もあったが、彼はそんな地元も後にして、現在は他国で研究に集中しているそうである。

それぞれにとり、必要なものはその時々によって違う。

世間的には謎めいた彼の行いも、そう観るとごく自然なものに感じられるのだ。

 

値千金以上。

(2017/4/24)