《覚後の知らせ》
「あーぶくたった にえたった 煮えたかどうだか食べてみよう むしゃむしゃむしゃ」
むしゃむしゃ行けるかどうかはさておき、既に大分煮えたって来ている不覚社会。
地面の凝り固まった所は揺らされ、人の感情や行動も暴発し、時には事件となる。
喜びも悲しみも“濃い味”でないと、分からなくなっている。
その喧噪からすれば「それが何だって言うのさ」と拍子抜けする位の、淡く静かな歓びがこちらの日々には満ちている。
当たり前だが、すっかり、全く、変わるのだ。
その差を改めて実感していて、閃いた。
不覚者は比較が得意だし、好む。
そこに着目して、
「目が覚めてからこう変わった、不覚からしても良さげなこと」
そして、
「目が覚めてしまうと変わる、不覚からしたら嫌かも知れないこと」
を、それぞれ挙げてみるのはどうだろうか。
そう思いつき、一体何がどう変わったかに意識を巡らせてみたら、 これで全てではないにせよ、一部がするすると出て来た。
まずは良さげなこと達からご紹介してみる。
その1:過去への後悔と未来への不安がなくなる。
「今しかない」と言う“知識情報”だけでなく、今に意識が統合されているので、それを忘れることが無い。
呼吸を忘れて酸欠になったりしないのと同じ。
その2:何かを誰かのせいにすることがなくなる。
常に全体一つの“わたし”が動いているだけであり、物理次元キャラクターと言う沢山の指人形の中に、入っている指の存在を常に感じている状態。
色んな指人形が変な動きをするのにビックリしても同時に、「でも中に入ってるの、同じ手から生えた指だし」と、腑に落ちている。
その3:優劣の比較なく、部分であることを全う出来る。
オツムの出来映えとか、財布の分厚さとか、珍しい才能とか。
何かしらのあるなしの基準で、行動の意味や価値をはかったりしないので、自らがしていることに対し、シンプルな充足がある。
こうなると逡巡がなくなり、こなす仕事の量も増えるし、質も上がる。
その4:憂さ晴らしをする必要がなくなる。
不覚時代から宮司を名乗る“これ”はギャンブルにも、タバコ等の嗜好品や薬物にも興味は持たなかったが、目が覚めてからも特にそれらを必要としていない。
酒は飲むが、滅多に外で飲まなくなり量も減った。
端から見れば冗談みたいな量をポイポイ飲むことも出来るが、そんな暇があれば、今の今は作文をする。
買い物もするが、憂さ晴らしでは買わない。
無い袖は振れないのと同じで、憂さが無いのに、憂さ晴らしは出来ない。
逆に嫌かも知れないものもご紹介してみる。
その1:何を成そうが優越感に浸れないし、得意になれない。
達成感はあるのだ。全体が栄える一手を打てたことに対する「わ〜い」「やったぜ!」と言う感覚はある。
だが、それだけだ。
その2:激しい感情に盛り上がれない。
常にどっかしらに「全体の流れを観ている感覚」が消えることなく有り続ける。
なので、茶目っ気を出してフザケてみても、踊りながらも観る阿呆となるので、無闇に暴れ回ることが出来ない。
その3:世間の大多数が幼子の様に見える。
ちいさな人たちかどうかに関係なく、ビジネス、交流、戦争まで、何でも出来る「こどもの国」に居る感じである。
本当に、皆何でも出来る。掛け値なしに愛すること以外は。
不覚社会のあちこちで起こるエゴ由来の珍奇な振舞いに「おぅ」と驚いた後に、「こどものすることだから…」と納得する場面は多い。
ざっと挙げてみたが、これらを眺めて「それならば目を覚ましたい」もしくは「それならば目覚めは御免こうむりたい」、どちらかに針が傾けば、ご自身の意志を確認するにあたって上々の首尾では無いだろうか。
そうだった。不覚から見て良いのか悪いのか、はかりかねるがもう一つ挙げておく。
対象を定めない、訳の分からないあたたかさ、
つまり天意からの愛が溢れ出して来る。
そしてそれは意志と関係なく、強まったりする。
全母が天意を、そこから強く溢れさせたい時、只、その中継点となる様である。
胸と言わず、何処と言わず、全体から溢れて止まらない。
先日も地下街を歩いていて、天意の感覚が突然強まったことがあった。
不意のことに驚きながら、地下は根の国底の国に通じると気づいた。
「地底より天意を込めて」と、地上の全てにも向けて、天意からの愛を送りながら歩いた。
「愛出て来るとか、ちょっとまずいんで」となる方は、今さら当宮境内には居られないだろうが、本当に驚くばかりの体験が現れるので、一応申し上げておく。
日々、出し惜しみなし。
(2018/7/2)