シリーズ 「 ここから分かること 」
《視界の変化》
目覚めと言うだけあって、真っ先に自覚したのが視界の変化だった。
個の自分が他を見ていると言う感覚はなくなり、全一の中で「これが見る」という状態が起きているだけとなった。
そして、宮司という「これ」と「これでない形」を取っているものたちとの間に、見えないことになっているエネルギーが満ちているのもはっきりと自覚して日々を過ごしている。
空間も含め全てが一体で、本質的に個人はいない。
全体が布で
個人は柄。
人柄や家柄、土地柄などというが、人や家系や土地自体が柄なのだ。
そして柄の中を通って無色透明の自由な虚空のエネルギーが流れている。
流れているだけでなく、全ての色柄物(物理存在)を点滅表出させている。
エゴ持ちの分割意識が試みているのは、エゴが気に入った絵柄を作ることだ。
柄を手にすることが、そのまま「お手柄」になる。
自分が見ている所の近くにだけ気に入った色のラベルを沢山貼って、派手にする。
とは言え生地は流動する光エネルギーなので、そのままでは固定出来ない。
ラベルとくっつくのはラベルだけ。
ラベル(レッテル)同士が端っこくっつけ合って相互に結びつき作って来た、生地を覆う程のパッチワークが、不覚社会の正体だ。
デザイナーの交代が激しく、又センスもないので、まあしっちゃかめっちゃかな配色で、綻びだらけな作品になっている。
そのラベル達も、全一の水の水位が上がって来ているので早晩「ノリが溶けて」剥がれることになる。
ラベルと運命を共にし物理次元を失礼するか、「自分、柄でした」と認めてデザインは全母である虚空に任せて柄役を楽しむか、それは各端末の自由だ。
フェアじゃないので一応「失礼した後の再入場は超ムズよ」位は言っておくが、本当に自由である。
目が覚めてから視覚と触覚が極めて近しくなり、そうした事実を「目の当たりにし」同時に「肌で感じて」もいる。
「目で見る」として捉えるもの達の有り様も随分変化した。
不覚時代には草や葉や花の美しさにばかり目が行ったが、目が覚めてからそのぞっとする程の美しさに気づいたのは、木の幹である。
表皮の凹凸や、模様、質感が、息を飲む程クリアに迫って来る。
花や草や葉のような色や香り、軽やかさははそれら独自のもの。それはそれで美しい。
そうした分かりやすい美と全く違う、存在の美しさが幹にはある。
葉や草や花の美には「ああ、綺麗だね」としみじみする余裕があるが、
幹の美は、呆気に取られるような美しさなのだ。
根からエネルギーを受け取り、草や花や葉へ送る渡し役に徹している様が、あの澄んだ美を生んでいるのか。
だが、茎には幹ほどのクリアな美を感じない。
万物は皆平等に虚空から生じているが、地(象徴としての中心)に近く、経路が太い程、エネルギーの精妙さも増すのだろうか。
もしそうだとすれば、幹でこれなら根を見たら卒倒するかも知れない。
今の所、目にすることが出来るのは、既に掘り起こされて根としての役割を終えた状態の根である。
野菜売り場で牛蒡を見ても、別に仰け反ったりしない。
地中にあって絶賛活動中の根の美しさは、どれ程だろうか。
機会があれば、見て見たいものだ。
片側だけそーっと掘って見るとか。
(2016/8/29)