《虎と司会》
先日、春の初めを祝う様な舞台を観に行った折に、大変味わい深い発見があった。
絵に描かれた虎に命が宿り、窮地に陥った主人を護って敵役と戦う場面。
大きな虎の中に入った二名の演者が「頭と前足」「後足と尾」をそれぞれ担当し、息を合わせて一頭の虎としての動きを表現する。
血で描かれた絵が具現化した、マジカルな虎。
それが後足だけで立って前足を天に上げ、ダイナミックな動きで敵を圧倒した瞬間に、衝撃を受けた。
巨大な頭と広げた前足。
その重み全てを支えて地に立つ後足から
「今この瞬間そうして存在していることの歓び」
を爆発的に感じたのだ。
後足担当の視界がどんな状態になっているのかは分からないが、人の姿で舞台に立っているより客席の反応を感じ取ることは難しいだろう。
観ているこちらも、虎の内に居る存在の「人としての表情」は全く分からない。
だが、歓びは伝わるものだ。
一体どんな方々がこの役割をされているのかと、パンフレットを読んでみて再び驚いた。
虎と言う役名も、役者達の名前も、そこには載っていなかったのだ。
これには痺れた。
何と美しい。
舞台装置としての虎仕事を全うし、「せめてお名前を…」の声にも振り返らない。
「かぁっこいい〜!」
と唸り、殊に“虎の後足的生き方”に感銘を受けた。
そこでふと、不覚時代の体験記憶が蘇った。
不覚の一学生だった頃、「着ぐるみの中に入る仕事」に興味が湧き、チャレンジしてみようと決意したことがある。
どう言う業界にアクセスしたら着ぐるみに入れるのかも良く分かっていなかったし、ツテも全くなかった中、どうにか1件巡り会えて電話をかけた。
「着ぐるみに入るお仕事がしてみたいんですが」
「あぁ〜今足りてましてね、司会でしたら丁度空きがあります」
「いえ、着ぐるみで何とか」
「司会だったらねぇ〜」
こんな感じの押し問答が繰り返され、全く埒があかない。
物別れに終わり電話を切って、
「着ぐるみっつってんだろうが!」
と悪態をつき、以降は縁がなく結局今日まで着ぐるみに入る機会がないままである。
この春出会えた虎の後足を切っ掛けに、再びのチャレンジ、そんな話ではない。
大切なのは、
世の中で派手とされる役だろうが、地味とされる役だろうが、全体一つの流れに沿って来ていると感じたら、どんな役でも引き受けてみること。
司会であってもいいではないか。
その柔軟さが、当時の狭量な意識にはなかった。
虎の後足は、虎の後足だから輝いていた訳ではない。
虎の後足を、全力で演じ、歓んでいたからである。
“表にでないことこそ粋”と言うのも偏りで、どこであってもあの様な美しい仕事をすることは可能なのだ。
目が覚めた人が増え、それぞれに披露するものを持ち寄る機会が生まれた時には、司会だって務めてみたい。
皆様の活躍を紹介し讃える役回り、素敵な仕事だ。
結構、蝶ネクタイも似合うんじゃないかと言う気がしている。
着ぐるみで司会、でもいいのだ。
(2019/3/4)