《落着の力》
秋分も過ぎ霜降も経て、流れが動から静に移ったことを感じている。
次第次第に日も短くなり、変容に向かう方々の進化も、より微細なものに変わるようだ。
その静かな静かな進化を遂げる状態を、そのまま表すかの様な存在を先日ふとした機会に目にした。
これから落葉を待つ
状態の桜の木々。
夏の間たっぷりと浴びた陽射しの力を蓄え、今の今は葉を落とすことに向けて力を注いでいる。
これからそうした整理整頓が済み、やがて最も静かな「まるで何もない様な」期間がやって来る。
春まだ遠い木々の姿を眺めていて、
「これは分からなくなるかも知れないな」
と気がついた。
ほぼ、棒なのもあるし。
不覚の状態で経験出来る様々なことを実践し、葛藤や騒乱がもう必要ないと分かった時、一旦「ぽかん」とする地点がある、ようだ。
「ようだ」と言うのは、宮司を名乗る“これ”はある機会に一気に全体に溶けてしまった為、直接に経た体験ではない為。
していないことを、「これこれこうだ」とは書けない。
だが、何故その状態が起きているのかについては、不思議と分かるのだ。
虚空と言う“見えない何か”の謎を解くことに真摯に取り組んで来られた方々の姿から、気づかせて頂いたことである。
それまでの体験が山あり谷ありの派手なものであればある程、
真実に触れたなら、ぽかんとせざるを得ない。
何もしたくない様な気にもなったりもする。
何もしたくない時には、何もしない自由がある。
それまで尽くしに尽くして来た人物に取っては、まさに、「何もしないことがチャレンジ」だったりする。
只、全く「何もしない」ことは出来ていない。
物理次元にある存在は、皆が全て生滅と言う点滅を繰り返しているからである。
尽くしに尽くし、働きに働いて来た方々に申し上げる。
急にその気が失せたり、体調の変化等で、慣れ親しんだテンポでの歩みを一旦止めにする様な機会が来たら、既に役割を終えた色々なモノコトが、
「静かに落葉する状態」
を、味わわれることが実践となる。
そしてエネルギーを中心の、奥へ奥へと向けて、行き渡らせる。
一応書くが、手を抜ける所は全部抜いて来た様な半端者が「この楽そうなコンセプト」に乗っかっても、何の進展もない。
只、「いつもより余分に寝ただけ」となる。
この写真のタイトルは「引越しの荷造りを放棄して眠る男性」だった。
この記事以外にどんな使い道があるのかさっぱり分からない謎写真だが、ここではぴったりだ。
彼の様に放棄せず、出来る限りのことをして、ちょっと真面目が過ぎる位に不覚の日々を駆け抜けて来た方々。
誰恥じることなく、虚しさを憂うことなく、只静かに、もう必要のない枝葉が落ちるのに集中されること。
この時期、分かりづらいがもう小さな芽がひょっこり現われて、活動を始めている。
芽が育ち、蕾が生まれ、ふくらんでやがて花が咲く。
葉が落ちるのを待つ木々を眺めていた場所で、他にその様にして見上げる者は殆ど居なかった。
大勢が、そこにある木は見ずに、花を、そして春を待っている。
春待つ想いと言うのもいじらしい様ではあるが、誰も見なくても着々と力をためる木々は只々健気だ。
そして、美しい。
それに気がつけることを、全母と物理次元に感謝する。
日を追って、寒さと静けさが増す季節。
どれ程細やかに感覚を磨けるかは、重要な課題であり鍵でもある。
一件落着には、一旦落着く。
(2018/10/25)