《胡蝶舞う空》
真夏の母神祭から約二か月が経った。
あれからここまで、書いたり出かけたりの合間に見つめ続けていたのが、目覚めに関する業界がどう変わるかの動向だった。
宴席では申し上げたのだが、祭の開催を通して宮司が試みたのが
バタフライ・エフェクト
進化変容に関するガチの一手を営利なく行った時に、営利ありきの業界、そこで活動する面々に変化が起きるのではないかと言う仮説の検証だった。
営利は結構だが、非営利のレベルを超える内容であることは大切だし当然なことだ。
で、変化の潮流を観察してきた。
結論を言うと。
別に何にも
そろーっと上の様子を伺うと「言ったっしょ?」的な反応が返ってきた。
何でそろーっとかと言うと、母神祭の開催自体は上発注でも、バタフライ・エフェクトの観察を意志していたのは宮司だけだったからだ。
別に文句も出なかったので観察を実行したが、上は宮司の「目覚めや悟りに関しての情報発信やサポートは、希望者が適任者となって、それをする」というそれこそ希望的な観測を諦めさせる意味で、観察を容認していたようである。
目覚めや悟りに関して、分かったことを他へ発信するのは、ある意味容易いことだ。
肝心なのは
「どげ伝えたらWaterさ、分がっかな?」
と、覚不覚両方の感覚を包括して捉え、最適な表現を試み続けることだ。
この話し方ではなくてもいいが。
現行三次元ルールに則してどう見えようが、関係がない。
それが情報を発信する者としての誠意だし力量である。
説得力を出す為か知らんが、「皆が知らないことを先んじて伝える人像」を勝手にイメージ編集して、決めポーズだけ上手くなっているようなら、お話にならないのだ。
宮司は最近まで、次のように思っていた。
目覚めや悟りについて、知ったこと分かったことを発信したい、表現したい、他へ広めたい、他の理解を促したい。
そのように思う端末こそが、メッセンジャーやサポーターの役を任じて当然だ。
だってそのように望んでいるのだから。
わんさか居るし。数居りゃ当たりもあるのかと。
発信役となることを望んでいるのであれば、まして真実を発信することを望んでいるのだったら、それに相応しい者たる努力は当然するだろうし、そして勿論「望んでいる」のは、自我ではなく全一であるはずだ。
だったらその者がなさいよ。と、思っていた。
思っていたことの内容自体は少しも間違っていたとは思わない。
ただ結果として、その間違っていなかったことは、殆どなされていない。
この神宮をこしらえるきっかけになった会の主催者の方の、孤軍奮闘と言ってもいい。
まったく首を傾げるしかない変てこな状況だが、いくら首を傾げたところでマトモになることもなさそうだ。
今夏初め、ある昆虫園で緑溢れる明るい場所を舞う沢山の蝶を見た。
こんなに居るのかと驚く程の数に、生まれようとする覚者の姿を見た。
ガラスのドームに包まれた温かな楽園は天袋で、初めはそこに憩うた後、必ず空に羽ばたく。
制限のない世界で自由に舞うのだ。
バタフライ・エフェクトの観察をしながら、幾度かあの時の蝶達を思い出した。
動かない世界。飛ぶ蝶。
変わらない世界。舞う蝶。
観察を終えて、新しく始めることがある。
新世界の観察者としての領分を逸脱しない範囲で、仏の言い分と先導を了承することになる。
出来ても居ないことを飾り立てるのは愚かなことだが
出来ることをしないのもまた、愚かなことだからだ。
自由の体現者として虚空の愚者(道化)ではあり続けようと思う。
しかし全一妨害者という愚者は不自然だ。あと、つまんない。
不覚時代から宮司は一貫していることがある。
選択基準が
面白いかどうか。
面白い方を取る、面白い方へ行く。
岐路と呼ばれるどの場面であっても、面白い方面白い方へと人生のセグウェイの舵を切って来たのだ。
思ってもないとこに出た!
今回も面白い方に舵を切る。
蝶の誕生に懸けること以上に、面白いことはない。
加速する秋。
(2016/10/3)