《背負いと回転》
先日、ひょんなことから重さ約25キロ、縦1メートル×横1.2メートル×厚さ20センチの荷物を担いで、階段を上がる体験をした。
人に任せても良かったのだが、「出来るかな」の興味と「出来そうだ」の見込みの方が勝ってトライした。
結果としては出来た。しかし、持ち上げてみると重いこと重いこと。
一段一段進むのに驚く程の時間と力が必要だった。
支えるだけで腕が痺れる程の重さに耐え、歯を食いしばっていた時、不意にあの有名な光景が浮かんだ。
「そうだ、ゴルゴタに比べたらこんなもの!」
その一言で力が出たのか荷物が押し上がり、どうにか半分の地点まで来た。
そこでどうした拍子か、大変良い方法を思いついたのである。
それは荷物を、
回転させる。
四角い板状の荷物なので、一つの角だけ地に着けた荷物を回して、着いた先の段を起点にまた回す。
そうすると、あれよあれよと目的地まで辿り着いた。
引きずって上に向かっていた時とは、力と時間のかかり方が全く違う。
この体験をして即座に思った。
当時の現場に赴くことが出来るなら、群集に紛れ隙を見てイエスに耳打ちしたい。
回すとすごく楽ですよと。
天地を気にしない荷物に限る手段だし、十字架は梱包していないので勝手の違いはあるだろうが、これから磔刑に使われる板の端っこが少しくらい欠けていたって今さら誰が気にしようか。
まあ、あのイベントは「楽をする為のもの」ではないので、無粋な助言かも知れない。
回転が何故楽なのか。
それは運ぶ対象を決まった向きに定めたままで移動させようとしない為。
何故この体験についてお伝えしたかと言えば、これは事を進める時にも、全く同じに当てはまる為である。
アタマで思い描いた感じで進んで欲しい。
いい自分像を保ったまま進んで欲しい。
慣れ親しんだノリから外れず進んで欲しい。
損することなく進んで欲しい。
こんなことを先に設定していれば、事態を「引っくり返す」展開には向かわない。
だから具現化までに膨大なエネルギーが必要になり、他を操って穴埋めをしなければ足りなくなる。
不覚社会がエネルギーハンティングの場になっているのは、それぞれがお気に入りの角度に固定したまま「人生の荷物」を運んでいるからである。
無理がたたるとギックリする。
あらゆる角度の変化を許可できれば、事態は回転する。
回転させれば、展開する。
どこの部分を天に置くかこだわらなければ、地がそのつど勝手に支えてくれる。
イエスの十字架の様に「どうしても背負わざるを得ないもの」もある。
どうしたって引き受けざるを得ない、ここを逃れて何の全一かという、そんな場面が。
向きを定めた全身全霊の力はそうした時にこそ注ぐに相応しい。
以前、外出中に、片足を車に轢かれて仰向けになっているお腹の大きな母カマキリを見つけたことがある。
続いていた車の流れが丁度止んだ時で、放っておけばこれから通る車のどれかに潰されるだろうと分かった。
その時に、
男にはやらねばならぬ時がある。
というフレーズが降って来た。
「大げさな」と意識で返事しながらも現場に駆けつけ、持っていた紙で掬いあげて離れた場所の植え込みに逃がした。
「達者で暮らせよ!」とその場を去る時、不思議と清々しい気持ちになった。
「男には…」の男とは、申し上げるまでもなく分割意識のこと。
男性型でも女性型でも各自の分割意識の指示を発動させないと、御神体がそれを背負って行動に移すことは出来ない。
良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか、意味あるとかないとか、そんなものはどうでもよく、只その瞬間“これ”にしか成し得ないことというのが、宮司の背負いを決定する基準となっている。
そうした状況がやってきたら、何であれ引き受けてみると決めている。
背負う時以外は、自由に回転。
(2017/4/3)