《肯定?否定?》

 

 「異論!反論!オブジェクション」というニュース番組のコーナーが昔あった。

 結局全部否定でねぇのと思っていたが、人気だったらしい。

 

 見えない領域で大変動が起きているのは、皆様ご承知の通り。

  それが物理次元にも波及し、あちこちで伸るか反るかの場に立たされ面食らうシーンが続出しているようである。

 

 変容に向けて、「全てを受け入れること」を意志し始めた端末に対して、


「そうでしょ、だからこれも受け入れてね」

 と、どさくさに紛れて手前勝手な我を通そうとする者が出ることがある。

 

 宮司はこれを火事場泥棒と呼んでいる。

 

 直接お目にかかった方々には申し上げたように、「受け入れること」と「従うこと」は別にイコールではない

 

「変容したけりゃ私の持って来たこれも、全一の一部なんだから受け入れてよ」とは、はっきり言っていちゃもんでしかない。

 

 なぜなら、全てを受け入れるなら「彼らの望まないもの」だって同時に受け入れているのだから。

 

「受け入れること→否定しないこと→すなわち採用すること(従うこと)」というのが、どれ程ねじくれた不自然な連なりか、世人が分からないことが不思議でならない。

 

 

 何がどう為されるかは全て、「全母(虚空)の歓びのままに」が本道である。

 

 だが、是か非かの判定しか下さない不覚社会に引っ張り回されると釣られて、あれーっと本道から飛び出してしまったりする。

 

実はこれ、中庸感覚を磨くというテーマに沿った、

変容のためのアトラクションである。

 

 全母にとっては折込済の企画である、このいちゃもんアトラクションに対峙する時に、大変実用的な線引きを上から提示されたので、ご紹介申し上げる。

 

肯定でも

否定でもなく、

認定

 

 認言を忍ぶと書く。


 あらゆる言い分を控えて中立に存在を見ること、「見・止める」ことが認めることである。

 つい自分という端末の言い分だけ控えがちだが、あらゆる言い分なので、勿論火事場泥棒の言い分も控えさせていい。

 

 

 個人意識の色付けをしながら見るのを止めることが、認めることになる。

 

  承認とは、承り(受け入れてしっかりと相対し)認める(中立に存在を見る)こと。

 否定することや馬鹿にすることではないのと同時に、無理に賞賛したり好きになることでもない。

 

 認めることは承認することにつながるが、それを承諾してやると間違うことがある。


 言を忍んでするのが認めであって、上から目線や言動は、「認める」と本来相容れない。

 「認めてやる」という言い回しは、「他者に対する優位が自分にある」と勘違いする、幼い端末でないと使えない。

 

 モノコトに対し人間意識はしょっちゅう是非を問うが、かは所詮一カメラアングルから見た時の感想でしかない。

 

認定には、是も非も差し挟まれない。

 

 肯定も否定もしないので

肯定してくれたんだからずっと従ってね♪私の希望する通り働いてね♪

と言った陽のいちゃもんも

 否定された!進化したいなら謝ってよ!私を置き去りにした全一なんてないんですからね!」 

などと言う、陰のいちゃもんも、効力を発揮しない。

 

 認定には只、「全ての中の一つ」と言う指定席があるのみである。

 特別扱いしないし、邪魔にもしない。

 

 実際取る・取った行動が周囲の望むものかどうかには頓着しなくていい。
 どうでもいいことだからである。


 期待に添ったからと言って

 負けではないし、

 期待に添わないからと言って

 裏切りではない

 

大切なのは

取る行動が全一に則した動きであるかどうか


 急には分からないかも知れない。
 だが、それを意識することで少しずつ感覚が開いて来る。
 まずは全母に意識を向けることからである。

 

 この認定姿勢意識の中で貫き続けると、次第に周囲からの影響が少なくなる。


 勿論、自らの周囲への影響力も減るので、エネルギー授受への未練が残る場合、躊躇いの思いが噴き出すかも知れない。

 

 そこも含めて、「認定姿勢」は面白い試みだ。


 実際やってみると存外未練があった・もしくは無かったことが分かるからである。

 

びっくり!

 

 他者の自由を認めると、その分だけ自己の自由が広がる仕組みになっている。

 そこで「自他はない」ことへの確信が、ますます深まるように出来ている。

 

 つくづくと思うのは、我々の立つは誰の何にとってでも「待ち時間」などではないということだ。
 焦る必要は微塵も無いが、毎瞬に意味があり、つぶす時間はない。

 

 御神体というパートナーと協力して、全母の意に添った未知を邁進するのに、誰への遠慮もいらないのだ。

 

 磨くほど、深く、楽しくなる。

(2016/7/11)