シリーズ 「 ここから分かること 」

《聴覚の変化》

 

 聴覚に関して面白い体験が訪れたことがある。

 

 天気の良い、少し暑くなりかけた季節の昼下がり。

 丁度その頃の宮司は、「聴こえない音を聴くこと」に意識を向けていた最中だった。

 

 矛盾したオーダーに思えるが「表層の耳には聴こえない静寂の中にあって、それでも音としか呼べないもの」、言ってみれば「無の音・虚空の音」を感覚的に捉えようとしていたのだ。

 

 その裏側の音を“聴く”ことが出来ると、何故かしら分かっていた。

 そんなことに意識を向けながら歩いていて、ふいにとんでもない変化が起きたことを感じた。

 

 すぐ側を歩く、ベビーカーを押す女性達の話し声が


 工事現場でドリルがコンクリートを砕く音が


 せわしなく街路樹にとまったり飛び去ったりする雀達のさえずりが


 大通りを行き交う車のエンジン音が

 

全部別々に聴こえる。

 

 全部別々って当たり前じゃないのと思われそうだが、
 それは当たり前ではなかった

 

ありとあらゆる音


 その一つ一つを捉えて、個別に聴けていたのだ。

 

 まるで音の数だけ意識の面があり、全ての音に正面を向いて、それぞれの音をそれぞれの意識が中心に据えて聴いている、そんな状態だった。

 とんでもなくびっくりしたし、瞬間思った。

 

 聖徳のアレ、
 これなら
 行ける行ける。

 

一度に十人の話を聴くなんて普通に無理っぽい状況が、これを常時とすれば可能だと納得した。

 

 常時とすれば、と言うのは。
 戻っちゃったのだ。5分くらいで。

 

 

 再び周囲の音は環境音オーケストラ状態になり、車の音に注力すれば雀やドリルの音は意識から遠のく。
 全体の一部にしかフォーカス出来ない状態に戻った。

 

 これはこれで何も困りはしないが、又あの感覚がやって来ても面白いなとは思う。

 

 音の個別聴取を通して、意識を無数に分化させその全てを同時に知ることをしている虚空の、雛形のような体験をさせてもらった。

 

 ところで、無の音についてであるが。

 内側でそれを捉えることは出来ている。


ではなく、

内側で聴いている

 それでもやはり、“聴いている”としか表現出来ない感覚だ。

 

 その音は常に外の音とぴったり一緒にあり、静かに裏側に満ちている

 この聴こえぬ音なくしては、どんな表層の音も鳴ることは出来ないと分かる。

 

 聴こえぬ音無限の音だ。

 

 我々分神が皆、全母に抱かれているように

 

全ての有限の音

その無限の音

抱かれている。

 

うらっかわから、聴いちゃったのだろうか。

(2016/9/5)