《罪を澄ます》
「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「怠惰」「傲慢」「嫉妬」
これらを「七つの大罪」として、西方教会が、カトリックを中心に
「これらの罪はやっちゃかんよ」
と、示したのが6世紀頃。
聖書にこの罪は書かれておらず、後から作られた「神の国に行きたいならやっちゃ駄目なことリスト」である。
だが不覚者は「やっちゃ駄目と言われるもの程やりたくなる」性質を持っている。
終わりなきイヤイヤ期。
そもそも「○○はやっちゃ駄目」とすること自体、不覚的発想だ。
「全体から見て不自然な○○」と言う動きが起こるのを見つけた時、覚であれば「何故それが作動するのか」や「その作動を時や場や者を変えて、繰り返すのは何故か」を観察し昇華する。
全体を観るから、「やるな」「やりたい」の泥仕合から抜けている。
ところで、この大罪。
七つに固まるまでは八つだったそうだ。
4世紀頃、この大罪の原型である、豆腐で言ったら汲み出しみたいな状態で置かれた「枢要罪」が、
「暴食」「色欲」「強欲」「虚飾」「傲慢」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」
ここから「虚飾」は「傲慢」、「憂鬱」は「怠惰」へそれぞれ収納して片付け、新たに加わったメンバーが「嫉妬」。
これで四角く固まった。
もとはそんなグニャグニャな状態から定められた大罪。
真理に関する不覚者の仕事は、行きつ戻りつで総じてファジーだ。
さっきの二組を収納するなら、「色欲」は「強欲」へ入れられるはずだが、ここはわざわざ別にしている。
「色欲」は「淫蕩」とでも表記した方が、分かり易い気がする。
「欲」と「欲」とがかぶってるし、何より色即是空空即是色でお馴染みの「色」は、物理次元まるごとを象徴するものでもある。
“色の欲”と銘打つと、
色気は出しちゃいけないって言われても〜
それが人間の性だし、現実の性だし、それって醍醐味ですよね〜
と、鼻の下を延ばした『混ぜっ返し』も発生する。
そうして「ビバ!色欲!」と、ループに入って行く。
だが、別に色=エロではない。
確かにエロも色ではあり、蔑まれるものでは全くないし、疎んじられるものでも全くないが、あくまで色の一部分。
色そのものとイコールにはならない。
エロ即是空空即是エロなんて聞いたことあるだろうか。
こうしたさり気ない、
「ね、無理でしょ。結局人間って人間どまりなの。それが自然なの、はいお帰りはあちら」
な、仕掛けが施されている教えは多い。
当宮にお越しのグッドセンスかつ真摯に観察をお続けの皆様は、こうしたヘボい引っ掛けにはそろそろお気づきなられることが増えると思う。
今まで堂々と金看板で掲げられていたものを見て、
「ありゃ、これハリボテだわ」
「柱と思ったらウェハースじゃない」
と、ビックリされることもあるだろう。
あまりの馬鹿らしさに、先方へ一言指摘したくなることもあるかも知れない。
だが、どんどん旧スタイルで扱える神通力が減少し続けており、突っ込みすら燃料に欲しがる程、そうした者達も飢えている。
なので、これ幸いと逆に縋り付かれる。
やりたきゃ指摘も
勿論自由ではある。
だが全体貢献を意志するなら、ハリボテは軽やかに笑い飛ばしてご自身の本道をお進みになられると、最も速(=澄み)やかに、全体に貢献する。
歓びなくして澄み渡ることはないのだ。
澄めば嗤わず笑える。
(2018/2/15)