《罪が罰》
分からんちんな芸風でお馴染みの、「国で一番偉い役職ってことになってる人」を槍玉にあげて、反旗を翻したり徒党を組んだりしてやっつけようとする動きが世界のあちこちで盛り上がっている。
不安や恐怖、ざっくりとした終末感などが不覚社会に押し寄せて、ヒーローになるには持ってこいな状況。
こういうシチュエーションに燃える者も数多居るので、これから映画みたいなシーンも乱発するだろう。
けれど「にっくき分からんちん」をやっつけたり追っ払って「勝ったぞー!!」と歓声を上げる人々も、「その分からんちん」と一緒に『 変容 or Not 』の岐路では、『 Not 』箱に入る。
常識や理念や感情にとって許し難いキャラクターでも、それもそれで全一の内。
受け入れられずに呪えば当然、不覚に留まる。
どんなにでっかいラスボス像だって、実の所そこと戦うみんなが、お尻(=後ろ)から空気を入れて膨らましたバルーンなのだ。
罪の意識と、自他を問わず罰を与えたい衝動で、不覚社会はしょっちゅう揺れ動く。
罪のことも罰のことも、嫌っているようでいて実はとても執着している。
興奮できるから。
全母は誰のことも罪だとしていないし、誰にも罰を与えていない。
罪も罰もエゴが捏造して不覚が育てた「単なる概念」である。
罪と罰は不覚からすれば、別々の存在。
だが、全一からすれば同じ揺らぎ。
調和する世界の中で部分的に起きる、流れを無視した人工の波。
言ってみれば、罪が罰なのだ。
空海フィーバーの頃から人気のフレーズ
色即是空
空即是色
じゃないが
罪即是罰
罰即是罪
勝手にやらかして、勝手に凹む。
なぜなら結局同じものだから。
因果応報のような応報ワンクッションが、即ちにはない。
すなわち、とはイコールだからである。
古い呪縛が崩壊し、新しい息吹に満ちる変容の時代では、この「即」の精度も本来のものとなり、本当にスパッと「即!Now!」となって来る。
誰かの背後からエネルギーをむしり取った者は同時に自らの背をむしられ、
誰かの首にかけたはずの支配欲の縄は即座に己の首に絡まり、
地に吐いた唾は時を置かずに、放った者のつむじを濡らす。
今までのように術で誤摩化したり出来ず、分をわきまえないエネルギーは即座に当人の元へ帰って来る。
それは何故か。
勿論、お叱りなどではない。
「自他はない」と身に染みて分かる世界が、既にやって来ているからである。
宮司という“これ”も、別に誰かをやっつけて目を覚ました訳ではない。
むしろ他からの影響、そして他への影響、その一切を「手放して」初めて、全一に帰する体験が起きた。
その地点を今の今から振り返ると「全一のるかそるか」は、派手なドンパチから離れて、非常に地味な所で起きていると感じる。
当宮にお越しで、進化を怠らないガッツ溢るる皆様には、分からんちんどもの件など横道に過ぎないのだが、敢えて申し上げる理由がある。
分からんちんと、分からんちんハンター。
彼らにしたって本質は誰とも変わらぬ神であり、その神が本来ではない動きを「開き直りの馬鹿力」で行うエネルギーは、何気に強大。
勿論、変容の時代を押しとどめる力なんかないが、それなりの大波を起こすことはあるので、起きても只「ああ、やってるやってる〜」位の、軽めの対応に収めて、本道を行くことに注力して頂きたい。
不覚に対して未練が残る場合は、その騒ぎは魅力的に映るかも知れない。
それなりに盛り上がれるし、感情の高まりも感じられるから。
だが、そこに
新しさはない。
どれもこれもかつて起きたことの焼き直しである。
完全なる未知を愛する方々にとっては、どれだけ派手な騒ぎであろうと、芯は退屈であることに変わりはない。
サバイバルのリバイバル。
わざわざ観ます?
(2017/3/16)