《終了と肝心》


一昔前、世間で割に知られていた「あきらめたらそこで試合終了」と言う表現のことが、ふと意識に上がった。

 


何に付け途中で投げ出し易く、それでいてその場でやり遂げなかった後悔を抱いて後年悶々とすることの無益を説いた言い回し。


こうした特定のフレーズが大きく流行し出した辺りが、同意を示して熱狂の波に乗ろうとするブーム到来の時期に重なるのではないかと感じている。

すぐに気持ちが弱ってしまって、どうにも息切れして逃げたくなってしまう

そんなムードに覆われた時代に在って、ここぞの時に踏ん張る力を出すには、「あきらめたら…」はそれなりに有効なフレーズだったのではないだろうか。

「あきらめたら試合終了」の他に、

「あきらめが肝心」と言うのもある。

 

 

この二つを眺めていて気づきが起き、成る程と納得した。
 

試合終了の方は、「諦め」とは何かについて誤解したまま認識され、広まっている。

 

本来、

 

めるとは

らめる。

 


日にも月にも照らして、全体を明らかにした上で、個の都合を下敷きにした未練一切を断つことである。

 

元は「真理」「真実」「悟り」を意味する仏教用語であり、「達成は無理だと判断して手を引く」と言った意味は、別にない。

「真理を悟った後は、我を満たす自己実現は無駄と知れる」から手を引くのだと言えば、それはそうかも知れない。

只、我を満たす自己実現に向かわなくなったエネルギーは、全体の弥栄に捧げられるので、当たり前に活き活きする。

諦めて元気がなくなる

 

 

と言うのは、本来なら起こり得ないことなのだ。


余分なことから手を引き、傍に伸びた横道断って本道を行く

そうして初めて活力とは何かを、真に実感出来る。

では「あきらめたら試合終了」が誤りかと言えば、そんなことはない。

これはこれで合っている。

 


只、先に申し上げた通り、誤解された認識で広まっているだけである。

試合と仕合は同じ音であるので、虚空からメッセージを受け取った表現者が発信した段階で、ごっちゃになったのかも知れない。

「あきめたらそこでしあいしゅうりょう」の文言に宿る真理を観る時、

包み隠さずらかにして、

真っ当にめることが出来た時、

心底と言う「そこ」で、

 

エゴによる闘争の泥仕合終わる

 

ことが表されているのが分かる。

意識を澄み渡らせ、今、全体に捧げて何をすることが必要なのかが分かった時に、自ずと道は開け、見栄や欺瞞や好悪等の様々な都合で澱んだ泥の中で藻掻くことはなくなる。

つまり、「諦めないで、進めたね!ではなく、「諦められて、進んだね!祝うのだ。

ここが知れると、もう一つの「あきらめが肝心」と全く矛盾しないことも、明らかとなる。

 

終了が肝心。

(2019/3/11)