《箱の中身は?》
目覚めや悟りに関して今日まで、沢山の言葉が紡がれ、沢山の試みがなされ、同時に沢山の誤解も生まれて来た。
それが「あるのか」「ないのか」に始まって、
「どういうものなのか」
どうしたら「そこにつくのか」又は「それになるのか」
それには「一体どうすればいいのか」
何かを「するべきなのか」又、何も「する必要がないのか」
どう「向き合えばいいのか」
それが今の自分に何を「もたらしてくれるのか」
「重要なのか」、そもそも「必要なのか」
それを「信じていいのか」
あれやこれやの問いが細分化されてうじゃうじゃ出ている。
ご覧頂いた通り、まず最初の「あるのか」「ないのか」が不明。
それなのにあると仮定して、若しくはないと仮定して問いを積み上げるから、当然に答えからどんどん離れて行く。
当宮にご参拝の、極めてグッドセンスな皆様におかれましては、こうした堂々巡りはとっくに止めて
「外にどんな確証が登場しなくとも
この内なる希求、根源の問いが、
ありやなしやのその答えだ」
と、お分かりになられているだろう。
その前提で申し述べさせて頂くが、意識が作った箱状の閉鎖空間、その内部を、
「うわ〜一体何かな?」
と、恐る恐る触れて探る行いは、「不覚の状態から覚を発見する」と言う趣旨の、虚空である自らが設定したゲームである。
バラエティー番組で、「箱の中身は何だろな?」と言いながら、箱に空いた穴へ手を差し入れ、感触だけで中にあるものを当てるゲームがある。
中のものは、ウサギだったり、カエルだったり、タコだったり、ムシだったり、タワシだったり。
それが何なのか「事前には分からない」からこそ、ドキドキ感は最高潮、感覚もMAXに開かれる。
あなたと言う虚空は、それこそがしたかったのだ。
虚空である自らを、ありありと深く強く感じて知る。
その為には、一旦答えが何なのか分からなくして、それでもそこを感じようとする状況が必要。
と言っても、答えが「虚空と言う自ら」なので、箱の中に立体物は何もない。
タワシも、カエルも、ウサギも、「これこれこうが目覚めと言う答えでございます、な証」も何もない。
だから、手の中に何も触れない。
何もなさこそ、その答えだったと知り、同時に「何もなさを感じられる」ことから「ないがある」ことを知る。
その、あらゆる感触を超えたものである、“無の感触”に気がついた瞬間、全てが解ける。
箱も解けるし、疑問も解けるし、存在は全体に溶ける。
溶けちゃった状態から、2018の不覚社会を眺めていると、つくづく
「箱〜の中身は何だろな♪」
が、長過ぎだろうが
と感じる。
時代的にもそれをする時期をとっくに過ぎていることが一つ。
後、本来行いたかった「全体一つの運び」の面白さの前には、延々続く箱遊びは、とても退屈に感じられるからである。
ないがあるのを、感じてみよう。
(2018/4/19)