《祭る心》
一体どういう訳からか、不覚時代の宮司は熱烈にこのイベントを好んでいた。
「クリスマス>盆・正月・七夕」
盆と正月と七夕を足したよりもクリスマスが大事だった。
余りにテンションアップがきりもない為、「クリスマス気分は11月1日から!」と禁漁の様な制限を設けていた程である。
それでも1年の大体6分の1は、クリスマス気分で過ごしていたことになる。
不覚期に“自分と思ってた人”のことも、どんどん遠くなり思い出し難くなっているが、当時はカーッと血が熱くなると言うか、「クリスマスと聞いちゃ黙っていられない」とか、「もう私と言えばクリスマス」位のおかしな認識を持ち合わせていた。
「自分とクリスマス」に重ね合わせて、「岸和田とだんじり」の関係性も理解できた気がしたものだ。
北極生まれでもないくせに。
目が覚めたことで、その奇妙な偏執もカサブタの様にぽろっと剥がれ落ち、「あれ、今まで一体何を…?」とポカンとなった。
良く分からない謎の親しみみたいなのは残りつつ、現在ではクリスマスも「いっぱいある楽しい祝祭の一つ」におさまっている。
と言うことで、先月も全然クリスマスクリスマスしていなかったのだが、今年はやけに上がクリスマスを推して来る。
「とにかく、光らせて!」
と言うことだった。
この祭の本義も重要であるし、そこに加えてクリスマス特有の輝かしさがポイントらしい。
とにかく祭れ、内なるお祭り男の発動だと。
景気よく、惜しみなく、大盤振る舞いを。
と、そんなイメージを示された。
「え〜。てか、そんな真っ暗なんの」
当宮にお越しのグッドセンスかつ実践派の皆様方には、既に“沈まぬ太陽”をお知らせしている。
なので、そこに意識を向けて頂けば良い話。
かと思っていたのだが、感覚として伝わりきらなかったり、周囲の暗さに同調したりで、太陽から意識が離れることがある。
その時に中心に立ち返らせる光が必要なのだと、知らされた。
と言う訳で、じゃんじゃん光らして鳴らすことに。
猿の宮司が記事で振る舞うので、華麗な蘭陵王の舞よりひょっとこ踊りに近そうだが、息吹でいのちの火起こしをする火男ならそれはそれで結構。
どんどんクリスマスの雰囲気からズレつつも、祭る心は同じ。
それは奉る心でもある。
今月は25日まで、祭り奉って光らせて行くことにする。
皆様も是非、「心底から輝く」ことに注力して頂ければ幸いである。
祭りまくる師走。
(2017/12/4)