《神の妙なる》
「神妙にしやがれ!」
昭和の時代劇でたまに聞く、謎のフレーズ。
調べてみると、神妙とは、
「人知を超えた不思議なこと」
の意味に始まり、
「心がけや行いが立派ですぐれていること、けなげで感心なこと」
と、「そりゃ“人妙”なのでは?」と感じるものに裾野を広げ、やがてシンプルに
「態度が大人しく、素直なこと」
まで表す様になる。
神の妙なる御技も、「神妙に小言を聞く」等まで親しみ易くなれるのだ。
人と神とが本来同一の存在であることを、神妙が辿った変遷から垣間見ることが出来る。
神の妙なる、「人知を超えた」「健気で」「大人しい」姿とは、
エゴの空騒ぎがなくなった
状態を表す。
目が覚めて全体に溶けた瞬間、それまで意識を翻弄してきた様々な概念が崩れ去る。
いかにもマトモそうなご意見も、感動の名台詞も、しょうもない不平も、何もかもが全部かき消えて、せいぜい
「……ああ!」
しか出て来ない。
それを指し示す言葉を、不覚時代に習ったことはないし、見たことすらない。
内側から溢れ出した最初の音声は、「ああ!」。
「おぎゃあ!」が翻訳出来ない様に、「ああ!」も翻訳することは出来ない。
「おぎゃあ!」には不安や混乱も含まれるかも知れないが、「ああ!」にはそれがない。
不安や混乱はエゴに付随する。
それらが虚空に溶けて消えた後の「ああ!」には只、真に生まれたことへの驚きと歓びが有るだけだ。
ふっと、会話が途切れ、誰も何も言わなくなった状態を
「天使が通る」(Un ange passe )
と表現することがある。
神の妙なる空間。
天使が通る空間。
どちらもエゴが黙り、シンと静まり返って訪れる状態なのだ。
「男は黙って」もそうだが、エゴ達が消え行く恐怖でがなり立てる音が不覚社会で増せば増す程、それに惑わされない内なる静けさ、沈黙が重要となる。
不覚の時点でも、心底から覚悟を決めた時、内なる静けさはやって来る。
意識を澄まし、聴こえぬ声を聴くことへ集中されること。
決定的な瞬間が訪れるのはどのタイミングか。
それは誰にも分からない。
只、あなたが意識の底から、心の底から、腹の底から、黙る時。
沈黙が、あなたを発見する。
(しー)。
(2018/4/16)