《神と遊ぼう》
目が覚める前後、よく神社に参拝した。
地元のにちょくちょくとかではなく、「何故そこに?」と言う場所が多く、訳の分からないままに随分と遠方にも出かけた。
人の本質は神であるし、他の自然物も形を変えた神。
本来万物が神性を有するが、神社の神は見た目まんまの「ベタな神」であり、「特殊な空間」に「特殊な存在」として鎮座ましまして居るので、問いを投げかける、メッセージを受け取る等、対話するのに何かと分かりやすい。
こちらが真摯な問いかけをすれば、当然に向こうも真摯な受け答えをする。まともな神なら。
まともな、と言うのは実際神社の神もピンキリであるから。
この時代で人型生命体が晒されているのと同じく、神社の神もまた「変容乗るか反るか」の波に直面している。
縋り崇めてくれる近在の民、遠方からの崇拝者。
「彼らにのみ特化」して神徳を奮う時、当然にそのありがたやも先細りする。
既にエネルギーの質が変わり、「部分から部分への働きかけ」は機能しなくなっているからだ。
表向きは限定された土地に設置され、限定したジャンルのご神徳を扱っていても「そこを通じて全体に貢献する」意志がなければ
神社の神でも潰れて行く。
神だから安泰だなどと、誰に言えるだろうか。
以前入浴中に、ふと上から言葉が聴こえて、笑い過ぎて湯船に沈みかけた。
神の国に、
スタッフパスはない。
当たり前だ。
ファストパスも、関係者席だってないだろう。
そうした「万物平等」を承知の上で是非、“お呼び立て”があったり気が向いたりした時は神社の神の元を尋ね、彼らと対話してみて頂きたい。
対話の返事は本殿での参拝中に直接もあれば、メール(神籤)でも来るし、空の色や雲の形、参拝の後に起きた印象深い出来事等、様々な形でやって来る。
当宮にお越しになる皆様が今更そんなことをなさる訳はないのだが、話のついでに申し上げると、神社の神に対し「馴れ馴れしくフランクに接する」のも「平身低頭でいい目みれるか顔色窺う」のも、適切な接し方ではない。
只、「全一に尽くす者同士」として愛と敬意を以て、接して下さればそれでいい。
根底に愛があるなら若干ぞんざいになってもキレても大丈夫である。
「ぞんざいって。皆、お前程ではないだろうよ」
しかしそれなり一等地に在ったり、スタッフがやたら雰囲気出したりしている物件もあるので、お出かけの際には「非日常感を楽しんでもそこに酔わないこと」が大切となる。
不覚時代の宮司は、平凡な一納税者としての自らを愛していたので、山深い聖地や国宝級の本殿を目にしても
「休日使って来てみりゃあ、おしゃれなカフェもありゃしない。何だここ?」
と文句は言えども、「特別な場所へ特別な方に呼ばれ、特別なことをしている、つまり特別な私…」等の寝言は発しなかった。
各地の神社の神から宮司の元に、引きも切らずに「呼び立て」が舞い込んだ理由は、「こいつ馬鹿だけど勘違いはしないな」と言う、只一点に尽きるのではと感じている。
まして当宮にご参拝のグッドセンスかつ馬鹿でない皆様が、勘違いせずにお越しになれば、神社の神々はどれだけ喜ぶか。
「特別感」とはエゴが最後の最後までしがんでおきたい不覚のツマミで、人生に酔う時には欠かせないアイテムである。
そんなものはうっちゃって、只、見えざる存在と意識上で「裸の付き合い」をしてみられること。
正直、ガチで全一に乗り気な神々は「人なる神付き合い」の面では、皆相当にヒマしている。
人なる神が尋ねて来てくれないので、全体の弥栄に尽くして環境調整に徹する位しかすることがないのだ。
環境調整と言ったって、「余程トンチキな状況画面」を「ややトンチキな画面」におさめる程度しかもう出来ていない。
参拝に来られた方が、人から変容し神となる意志をお持ちであるだけで、
「特ダネだ~!輪転機止めろ~!!!」
の騒ぎでも不思議はない。
今どの程度出来ている様に感じるか。
そんなことは横に置いといて、日々行う愛の実践の中にスパイス的に神社の神との遊びを挟んで頂くと、視野が広がる。
遊びと書いたが、遊びでいいのだ。
「私とのことは、遊びだったのね!」みたいな文言が流行り、いつのまにか「遊び=本気ではない」みたいなイメージが生まれたが、遊びと本気は不可分で、本来全てが本気の遊び。
本気でないのを表すのに好適なのは遊びではなく「浮気」である。
2017も後半に入り、端末ごとの差も開き、正念場も増える。
不覚に浮気せず、ひとつ本気で神々と遊んでみて頂きたい。
気軽に、くぐろう。
(2017/7/27)