《砂の城》
既に幾度か申し上げた通り、流動するエネルギーは不覚社会の都合に合わせて扱える様な代物ではなくなっている。
そのことは「目に見える流動体」である水に関して起こる事象となって、分かりやすく表れている。
豪雨、洪水、鉄砲水。
その一方で水が枯れる所も出てくる。
こうした目に見える水だけでなく、目に見えないエネルギーも、不覚の預かり知らないところであれよあれよと引いたりしている。
水分が抜けた砂の城がサラサラと崩れ落ちる様に、それは誰にも止めることは出来ない。
もう水は、個の都合で為されることを支える為に機能しない。
全一に則してはたらくのみである。
これまで好きに作ってきた砂のテーマパークが、維持出来なくなっているのに気がついた者達は、混乱する。
不安に駆られ、嘆きや文句を言うだけの者も居る。
中でも、特に現実化と言う“お城作り”が上手だった者達は、崩れちゃたまらんと残された水分で、少しでも固め続けようと頑張っている。
エネルギーがどこに集まるかに神経をとがらせ、恫喝、懐柔、懇願、幻惑、扇情、恩を売る等の様々な方法で、奪い合っている。
互いの生き血を吸いあって、その血で砂を固める様なものだ。
白日にさらされて蒸発し、血の持つ水分も虚空に回収されるので、これも少々の時間稼ぎにしかならない。
新世界には、被害者も加害者も、至らない者も報われない者も、特に居ない。
「マトモなのに報われない」などと言うことは有り得ない。
報われていない者は居ない。
報いに色んな種類があるだけだ。
報われていない、とは単に「来た報いが気に食わない」状態を言う。
どんな報いが来るかは、どんな種を蒔いたかで決まる。
とてもシンプルで、静かで、何の不都合もない。
物理次元のビーチでの砂遊びなら面白そうだが、現実化という意味でなら、“砂で城を作る”気はさらさらない。
全てが覚の水である世界で、自らも水となって眺めているとエネルギーの行方は別に気にならない。
何が出来ようが、「全てご自由に」である。
在ることが相応しいものは在るし、そうでないものはそうでなくなる。
その生滅を、天意からの愛で観察している。
白日で干上がる都合。
(2018/11/12)