《真理の大海》
I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst
the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
Isaac Newton
(私は、浜辺で遊んでいる少年のようである。時折、見慣れたのよりもつるつるした小石や可愛い貝殻を見つけては夢中になっている。真理の大海は、未だ発見されぬまま、目の前に広がっていると言うのに。 ―アイザック・ニュートン)
これのもっと短い要約、「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっている。だが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない」を不覚時代に目にしたことがあり、とても嬉しく感じたことを覚えている。
全く同じことを、思った経験があったからだ。
ニュートンとは関わるジャンルが違ったが、探求を深めれば深める程、美しいビジョンやアイディアが引っ切りなしに押し寄せ続けた。
得ても得ても、まだきりなく広がる。
呆気に取られると同時に、無力さも感じた。
彼の言葉を目にして嬉しかったのは、同じ思いに駆られた者が、この世界に他にも居たと言うこと。
そこから、自身の感覚の平凡さに満足した。
目が覚めてからは、不覚時代とは違い浜辺で無力さを思うことはなくなった。
文字情報と言う、今までと全然違う小石や貝殻がじゃんじゃん採れるが、それにも納得している。
不覚社会への興味がなくなっていたらしい期間、宮司が何をしていたかと言えば、この真理の浜辺に入り浸っていた。
と言うのも、不覚社会についてのあれやこれやをピックアップして申し上げているだけだと、「ですよね、やっぱ進化って難しい」や「そんなごたついてる世の中よりは私たちは進んでますもんね」と、今ひとつお尻が重たくなる要素ばかりになる気がしたのだ。
それで、既に目が覚めた方にも面白く、まだの方にも「なった後がそんなに面白そうなら、やる気出る」と、自然に感じられる様なNEWさに満ちた要素を持ち帰ろうと、未知の浜辺をほっくり返していた。
ところがいつしか、ほっくり返すのに夢中になっていた模様。
素粒子、修験道、無とゼロ、侍、多次元、風林火山、ブラックホール、河童、生命場…、ひとつひとつ綺麗に洗ってバケツに集め、並べてると
お〜い
お〜い
お〜い
離れ過ぎだ
え〜
知らない間に、誰も来たことない様な奥の浜に居たらしい。
合間合間にちゃんと、つるつるしたマイケルジャクソンや、可愛いクララとハイジも拾っておいたので、直ぐに戻って当宮の業務にあたれたが、遠出しながらちょいちょい帰って来ないと、バランスの取れた仕事は出来ない様である。
当宮の記事内容は、宮司を名乗る“これ”が文字化する情報の、ごく一部。
はっきり申し上げる。ごくごく一部だ。
ほっくり返した一部の更に一部。
全体は果てしないし、途方もない。
サグラダ・ファミリア級に桁違いな存在が小石化する真理の大海は、桁外れなのだ。
そんな真理の大海が波となって打ち寄せる浜辺を、目の覚めた後はどなたでも自由に歩き回ることが出来る。
独り静かに真理と向き合う浜辺で小石も貝殻も、大海に沈むもっと面白い宝も採り出し放題。
それは言葉かも知れないし、デザインかも知れないし、メロディーかも知れないし、そのどれでもないかも知れない。
その方ごとに必要なものは変わってくる。みんなが河童の石を掘り出す必要などない。
特定の人物だから出来た、と言うことは全くない。
むしろ特定の人物像を被ったままでは、浜辺の夢を見るに留まる。
宮司や、ニュートンもおそらくそうだったろうが、不覚であっても個の感覚にあまり囚われてなかった者は、好奇心を呼び水にして真理の浜辺にチョロっと潜り込めた気がする。
公に言ってないだけで、他にも大勢居ただろう。
目さえ覚めていれば皆、自覚を持って堂々と真理の浜辺に立つことが出来る。
そこから真理の大海を見つめ、その果てしなさにビックリすることが出来る。
感嘆の溜め息をつき、真新しい潮の香りを胸に満たす。
結構、魅力的な知らせではないだろうか。
果てなく広がる歓び。
(2017/11/13)