《白い光》
《全一の感覚》に書いた通り、凡神宮を作る過程で確かに上からねじられはしたが、神なる存在からねじられたからだけの理由で作ったわけではない。
上下階は対等なので、命令じゃなくアピールになるが、
『神なる我々はそなたの活躍が見たいぞよ』だの
『皆さんのお役に立つことが大切なのだよ』だの
上という位置を利用して文字通りの上から目線で神気取り発言などしようものなら、即座に
鼻の穴にピーナツ詰めて、下から飛ばして来るような宮司
だということは上の階もとっくに承知しており、そんな寝言は言って来ない。
元々、宮司の上はけして押し出しが強くない。
本当に必要な時に、必要なことを淡々と言うだけである。
ただそれは人間の思考の速度を軽く超えているので、自分が思ったことが現われているのかもと思う隙を全く与えない。なので、本当に分かり易い。
この時、上はただ事あるごとに圧をかけながら本当にうまい手を使ってきた。
画像を送ってくるのである。
それは、宮司が披露した神芝居かつ猿芝居なものを他の皆様がご覧になった時に、その周りに白い光が溢れ出た時の画像だ。
参加されたある方達が、お伝えした情報がとても分かり易かったと興奮気味に仰られた折りに、その周りに揺らめいた白い湯気のようなものに目を奪われたのが最初だった。
その白い揺らめきを見た瞬間に思った。
“まるで蒸篭を開けた時の、点心みたいだ。”
以前上から言われた、
『(覚醒しているかどうかは)チンしてあるかどうか(の違い)だけ!』
という言葉の通りだった。
湯気がどんどん出て蒸し上がれば、チンした状態になるのだと思う。
お一人お一人の揺らぎを見た時はそのように感じ、神芝居を広げながら周囲を見渡した時には、皆様から溢れ出た白い光はオーロラのように輝きながら揺らめいていた。
蒸した中華饅頭から溢れる湯気と、天に輝くオーロラの光は、それが「二度と無い金輪際の新しい瞬間である」と言う点で、まったく同じである。どちらも尊く、美しい新鮮なエネルギーだ。
不覚の時代にはまぁ、しなかったことだろうが、中華饅とオーロラを同列にとらえることが出来たのにも感動した。
見落とされがちな湯気の尊い美しさを発見するのが凡神宮の本義だからだ。
現行三次元ルールに則しただけの粗雑な美などくそくらえだが、この白い光には素直に魅了された。
なので「ああ、たしかにあれは綺麗だったなぁ」と、繰り返し送られる画像で何度も思い出した後、心のピーナツを一旦ポッケにしまって、上の言い分を検討してみたのである。
意味だけ後から宮司が読み解いたが、凡神宮も上が送ってきた名だ。
多分自分らも集まったり出入りしたかったのだと思う。
既存の神社は専ら崇敬者の“勝手建て”で、居たい所を作るという神の注文住宅など聞いたことが無いが、もうそういう時代なのだろう。
これから地平のあちこちに湧き上がる白い光を、上の神等が見る展望台にもなればいい。