8月1日は水の日ということで、水に関連した記事を書いてみました。
水には奔放な“動く喜び”のみがあり、何か都合があって対象をどこかに動かそうと言う意図はありません。
何がどこに行こうと水には全く困ることがないからです。
我々の本質が意図ではなく喜びにあることを、スコールから汗まで何かと水の循環の大きくなるこの季節に、再発見しようと思います。
では記事へ。
《生ける水》
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
どんな状況だったらこんな姿勢に?
平安から鎌倉にかけてを生きた随筆家、鴨長明が日野山(現在の伏見区日野町)に一丈四方のちいさな庵を建て、そこで書いたと言う方丈記。
方丈とは四方の各一辺が3.03mの小空間で、建てるのも解体するのも簡便だったらしい。
現代で言うと
http://seconds.quechua.com/index.php5#/home/
放り投げて即完成するテント
みたいなものだろうか。
方丈に全宇宙が内包されるという考え方から流行り、僧侶や隠遁者に好まれたこのスタイル。
「究極にシンプルな仮住まい=執着の卒業」のコンセプトアートとも言え、住まいのシンプル化に関して貴族の究極は大体3m四方と分かる。
そのパオみたいなのに籠って書いたこの随筆、冒頭の三行が実に冴え冴えと不覚の運びを表している。
何で不覚の運びなのかと言うと、
うたかたが浮んでいる所がよどみだから
である。
でもそん時ゃ、それがベスト。
長明の時代を含む様々な地点で、よどみアラカルトを体験し終えたからこそ、変容の時代が来ている。
よどみ時代の有り様(よう)の記録として、方丈記で長明は災害や飢饉など当時の実情を語った後、ここに至った経緯、自らの静かな生活と内観の描写に筆を移している。
マクロからミクロへ。
社会から個人へ、
そしてその個人の内側へ。
この作品から気づかされたのは、
人は天罰を恐れるが、天災より人災の方が苛烈。
ということと、
中世にも内観者は居たし、
肝な部分を感得し書き記してもいるが、
個であることを手放していなければ、
混迷は内観者に付いて回る。
ということ。
そして、
外側をシンプルにするのは
一つの試みではあるが、
これだけで本質は変わらない。
ということ。
真理の断片が降り、
文章化して広く伝わり、
各自がその情報を蓄える
だけでは完全覚醒には至らないということも分かる。
まず個を手放すこと(手放した実感がない場合は決意で代用)が大前提となる。
次いで、降ろした側が「何を降ろしたか」はっきり自覚していることが必要。
「ピピッと来て書いた、不思議で素敵なフレーズ」にヤンヤ言うだけの時代はとっくに終わっている。
そして記された情報を受け取る側にも、情報の真性を実感する、体験が必要である。
体験による体感で、初めて情報は全一に帰する。
フィードバック(帰還)
なくして進化なし。
一体感と言うが一心感とは言わない。
聖心と呼ばれるような内側から燃え上がる状態に至っていない人心は、常に「安」と「不安」とを揺れ動き、けして一つにならない。
全一に帰るには、「御神体全てでの感覚」と「体験」が不可欠と分かる。
生活すべてが体験である。
海でも、川でも、グラスの中でも、どこにあっても水は水であるように、
世間で言う晴れ舞台のも、移動中のも、日常の中のも、あらゆる瞬間は体験であり、そして生活である。
人型生命体は本来、ハレとケ、正と邪、優劣や貴賎などを超えた“生ける水”なのだ。
人間は貴賎の表面に聖俗という化粧を施し、二つを分けて世界を把握しようとして来たが、それも卒業する時期に来ている。
今後ますます、これまで聖なるものとされて来た場所や人の俗っぽさが明らかになることが増える。
それと同時に、俗なるものの聖性も立ち現われるようになって行く。
そうして初めて本当の聖とは何かが分かるようになる。
以前、上に言われてハッとなった一言を以て、本日の記事を締めくくらせて頂く。
「生活が、聖なるものでないとでも?」
(2016/8/1)