《灯台守》

 

凡神宮寺の計らいで、今月より一部の方に向けては直接対応の場を設けさせて頂いている。

 

お越し下さる方々の本気を目の当たりにし、頭の下がる思いと共に、

 

出来る限りお役に立つには、宮司という“これ”も進化し続けることだ。」

 

と、感じている。

先日も朝食に添えるココアを作っていた時に、そのことに意識を向けていた。

 

その時、不意に上から言われた。

 

くれぐれも 人類を お見捨てなきよう

 

今までにない丁寧な口調だったので、「誰?」と尋ねたら返事があった。
この国ではわりかし知られた名だった。

 

肉体死の後も人類進化に向けて勤務中とは、そちらにも頭が下がる。
それか、あの者であった期間の方が、「中身」にとっては珍しい体験だったのかも知れない。

 

にしたって、少々心外である。

当宮をこしらえたのが本年3月頃。
ご参拝頂ける様にしたのが4月。
8月には母神祭を執り行い、ご参加も頂いた。
10月には3つのチャレンジをご提案申し上げ、今月その解答編を公開した。

 

昨年3冊本年3冊と計6冊の小冊子を仕上げ、猿芝居も披露。
当宮でお伝えしていない神関連の旅も数度あったし、結構ハードなチャレンジもあった。

しかも増築された凡神宮寺の…(冒頭に戻る)。

 

こんだけやって、誰が見捨てとるんじゃい。

失礼しちゃう!

 

思い返すとそんな風に憤慨(ふんがい)もする。

只、先の台詞(セリフ)を上から言われた時には内心、

 

バレてる〜


 と思ったのは事実。

表向きには元気一杯、「前も言われたが話がデカい、何だ人類って」と突っ込んでおいたが、奥の方では、

バレてる〜

である。

 (おそらくこの「バレてる〜」バレてる〜。)

というのも宮司は目下、

 

当宮建立のきっかけとなった会に参加されて

かつ、同窓会にも参加されて

かつ、ご自身の決意によって進化変容の道を歩み出されている方々

 

にしか、関心がない

 

からである。

超レアケース。

 

全てを等しく天意しているので、自然に「その時相応しい場所」に関心が行く。

 

勿論、当宮の情報発信は会う会わないに関係なく「本気を持つ全ての方々」に向けて(おこな)っている。

だが、実際に進化の道を歩まれ、その様子をお知らせ下さる方々には、当たり前に関心を持つ。

 

その方々お一人お一人が、「ああ!」となる瞬間を迎え、

 

「もう分かりました、こんなに普通のことだったんですね。

そしてこんなに素晴らしいことだったんですね。

いや、全く何もかも変わっちゃったなぁ」

 

と、安堵(あんど)と感嘆と納得の溶け合ったご感想を自然に(おっしゃ)られるまで、出来る限りお役に立つ。

 

そしてその方々が「これは夢ではない」と広めて行って下さればいいことで、その辺までしか意識になかった。

 

そこに人類って。

人類進化の一助を担うのは、どの覚者でも当然のこと。

 

けど、まるっと「人類」?

おかしな話だ。

 

人類がどーのは、以前に別の上からも一度言われているのだが、市井(しせい)に暮らす平凡な一覚者の仕事の範囲を遥かに越えて、全員野球の当たり前な素晴らしさを無視している。

 

指定のプランが勝手に無制限になった感じで釈然としない。

いつの間に!

 

第一、全一化して自他のない存在にとっては「見捨て」というフレーズが土台、トンチンカンな響きになっている。

 

わたしがわたしを、どうやって「見捨て」ると?

 

しかし、聴こえた声の主正気かつ本気であることは伝わった。

聴こえた内容、分かっている事実、色んな要素を並べて眺め、ある結論に達した。

 

切羽詰まっていると言うか、正念場と言うか、何て言うか、割と待った無しな感じ?

どうやら、岐路に立つ方々にとっては巻きで行かないと追っ付かない状況なのだ。

時間は幻想だが、幻想内でも「するのが必要なこと」はある。

 

これを機に「お目にかかる機会のない本気の方々」にお役に立つ道も、探ってみることにする。

 

とは言え、直接対応は凡神宮寺が担当しており、当宮を通してお目にかかることは恐らくない。 

 

「会わないこと」も大切な要素だからだ。
以前、《公共物》で申し上げた沈黙の行である。

 

賞賛批判も届かない場所で、
どなたの都合にも合わせず、
情報発信を通して利益が発生せず、

 

損得を超えたところで淡々と機能する情報発信源
そしてその情報を受けに来る方々を観察する上の面々

 

こんな存在、他にあるだろうか?

 

だからこそ、これをしている。

 

荒れた道を行く者のとなって、献身的に側を歩むメッセンジャーが居る。必要かつ素晴らしいことだ。

それとは別に必要な役割もある。


宮司が当宮の建立を引き受けてしばらくした時に、上から送って来られたのは杖ではなく灯台のビジョンだった。

 

誰もやって来ない場所で、真っ直ぐな光を放つ。
そのレンズを磨き続け、暗い海を照らす。

 

 

どの季節であっても。波が何処(どこ)からどう来ようとも。

 

特定の船にだけ都合のいい光を発したりはしない。
無線が来たり、近くを横切る船はあっても停泊はしないし、この灯台には誰のどんな思惑(おもわく)も持ち込まれない。

 

だから安心して、意識が「何処をどう行っているのか分からなくなった時」には、当宮を目印としてお役立て頂ければと思う。

 

そうするしないは勿論ご参拝下さる皆様の自由だが、お越しになる度に「変わらずキレッキレで光ってんなぁ〜」と分かって頂けるよう、自らを鏡として磨き続けて行くことを決めている。

本年のご参拝、誠にありがとうございました。
良いお年をお迎え下さい。

(2016/12/29)